2015年12月9日水曜日

527「好日一如5」2015,12,9

 さて、塩竃神社と志波彦神社の間にあまり目立たない細い道があり、そこを進んだ奥に塩竃神社に倒れたような龍の姿のケヤキの巨木があります。この木は、いぼ神様と呼ばれています。木の根元には清水が湧き出ており、その水を箸ですくい、イボがある場所に塗るとイボが取れると言われていています。ここはあまり人も来ないのですが、最近はエネルギースポットとして知れてきているようです。私たちはあわ歌の巡りで塩竃神社に参拝すると、いつもこの場所であわ歌を響かせるところです。ここは光が降り注ぎいつもエネルギーを頂けるのです。お陰様で今回も沢山頂けました。





 塩竃神社が式外社であることは先に触れましたが、国の扱いも含めて些かの不思議があります。その内容は以下になります。
「・奥州一ノ宮と言われる大社にも関わらず、延喜式の式内社ではないこと。
 ・ 式内社ではないにも関わらず、弘仁式や延喜式において全国で四社しかない正税からの祭祀料を受けていたこと。
 ・鹽竈社以外の、全国で正税から祭祀料を受けていた他の三社「伊豆国三島社」「出羽国月山大物忌社」「淡路国大和大国魂社」は、いずれも式内社であったこと。
 ・鹽竈神社(10000束)が受けていた祭祀料は他の三社(2000~800束)の五倍以上で最高額であったこと。」
 どうしてなのか明解に分からないようです。しかし特別な扱いをされている神社であったことは事実です。この事に関して以下のコメントがありました。

「三崎一夫氏は「当社は国府多賀城と深いかかわりがあったと考えられ、この地にすでに存在していた地方神である当社に、多賀城付属寺院や国分寺などの建立と同じ目的から破格の祭祀料を授与し、地方鎮撫の一環としたのではないかと推測される」(『日本の神々』神社と聖地12)と述べ、おそらく蝦夷がこの地を聖地としていたことを指摘している。
 また祭神とされている武甕槌神(タケミカヅチ)、経津主神(フツヌシ)、塩土老翁神(シオツチノオジ)は記紀に登場する神であり、上古の浦人には無縁で、これらの神が創始以来のものかどうか疑問を呈している。」

 更に以下の考察は参考になりますので転載させて頂きます。
「鹽竈神社を語るには蝦夷の時代まで遡らなくてはなりません。原住民である所謂蝦夷の集団があってその中心となっていた神があったはずです。
「日本書紀」に齊明天皇五年正月の阿部比羅夫征伐の條に「即似三船一隻與二五色総帛一祭二彼 地神一」とあり、ここに出てきた地神こそ蝦夷が崇拝していた神なのではないでしょうか。
 原始的な信仰であれば、やはり自然崇拝であり、その中心となるものは山・川・湖・岩・石・太陽・海のようなものだったのでしょう。ですから、当然最初は何の神と云うこともなく名前を持っていなかったのかも知れません。しかし、その神は大和朝廷の支配下になるとそこの移住民や朝廷までも崇拝するようになり、次第にその祭神が朝廷の神話に出てくる神々と置き換えられ考えられるようになってきたはずです。それは大山祗神、高皇産靈神、大己貴神等と考えられ、または開発に関係の深い經津主神・武甕槌神或は日本武尊と考えるようになったのかも知れません。この地に居住していた蝦夷なのか移住民なのかは別として、この地に何らかの形で神を祭っていたことは間違いないでしょう。
 昔からあった民の神は他の社会と関係を持つことで、その土地に纏わる名前を持つようになります。そこで、この神は塩竈の神とでも呼ばれることになったのでしょう?中央の文化がこの地方に及ぶと塩竈の神が、日本神話に出てくる「鹽土翁」であると意識されてきます。鹽土翁とは、鹽土神・鹽推神・鹽筒考翁とも称され「記紀」の山幸・海幸の物語に出て来て山幸彦を海神の宮に行くことを教えています。
 海神の性格(潮流を司る神・航海の神)から考えられたのでしょう。岐神(ふなどのかみ)は、舟戸神・久那戸神・(道祖神・ちまたのかみ)とも称され古事記・神代紀一書に伊弉諾尊がその境界として枝を投げて岐神としている。
 古事記には伊弉諾尊が禊祓の際に、投げ棄てた杖から衝立舟戸神(つきたつふなどかみ)で脱ぎ棄てた褌(ふんどし)から道俣神(みちまたのかみ)が化生した。つまり、分岐点に祀られる神の意です。猿田彦と同神(日本書紀)と言われ、後に中国から伝来した道路の神である道祖神と集合した。そこから、道祖神も猿田彦と同一視されるようになったと見られます。
 神代紀の一書に經津主神、武甕槌神が平定に向かった際に高皇産靈神(タカムスビノカミ)のさとしにより、大己貴神(オオナムチ:大国主命)が岐神を二神に勧めて教道の神としている。ここに、岐神と經槌主神、武甕槌神との関係が見えてきます 。
 岐神と鹽土翁が同神のようにも見えるが岐神は境界に立っている神であり、道の分岐点を示す神です 。共に道しるべの神であるところから教道の神となり。この教道の神としての性格が、岐神と鹽土翁神が共通しているので両者が混同されてしまうのでしょう。
 しかし、伝承の中には同一神とされているものもあるようです。同一神だと面白くなるのが、岐神=久那戸神=猿田彦=道祖神の繋がりから以前「古代出雲帝国」の記事で書いておりますが、出雲大社が杵築へ移る前までは熊野にあり、クナトノ大神を祀っています。
 富氏の伝承には、この世界が一夜にして氷の山になった。大先祖のクナトノ大神はその難を避けるため一族を引き連れて移動を始めた。東の彼方から氷の山を越え海沿いを歩いた。
 そして何代もかかってようやくたどり着いたのが出雲の地であった。クナトノ大神は色々な知識を持ち鉄の採り方、布の織方、農耕の方法などを教えた。また途中の地である塩竈にて塩作りを教えています。人々を導いて来たことを考えると猿田彦の性格と合致しますね。
 出雲大社の御神体は釜であり、鉄にも関わりがあります。出雲神族の大先祖は「クナト(岐神)」の大首長だが、もう一つの女首長に「アラハバキ」があり体勢側により抹殺されようとした時、クナトは地蔵にアラハバキは弁財天へと変身した。と伝承しています。
 塩竈神社は岐神との関係が明らかですから、クナトとアラハバキが一対のものと考えられているので、元々はアラハバキの様な所謂蝦夷の時代または縄文時代に存在していた神の祠があったのだと想像がつきます。」
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