箟峯寺(こんぽうじ)は天台宗の寺院で、山号は無夷山(むいさん)。別称は箟岳観音(ののだけかんのん)といいます。箟岳山の山頂にあり、奥州三十三観音の第九番札所で、奈良時代の創建と伝えられます。
「802年、坂上田村麻呂が鎮護のために、京都清水寺の十一面観音を勧請、当時はこの山が非常に霧の深いところから霧岳山正福寺と称したが、849年慈覚大師が布教にこの地にして堂字を増建、無夷山箟峯寺と改称、以降殺生禁止、女人禁制の聖地としてきた。」
慈拡大師が改称した山号は何とも意図を明確にしているようです。無夷とは夷敵、蝦夷を無しにするのです。天台宗、特に慈拡大師は陸奥の地を巡り、大和朝廷の国家護持の為に仏教で教化して歩いたようです。
以下の様な記載もありました。
「宝亀5年(774)から始まる蝦夷との38年戦争に際し、光任天皇の勅願で創建され加賀国の白山宮を勧請した。38年戦争は、現在の石巻市にある桃生城に対する蝦夷の襲撃から始まる。やまと朝廷は支配地域の拡大政策を進めていたが、これにたいするこの地に住んでいた住民(蝦夷)の反乱であった。蝦夷征伐後、大同2年(807)坂上田村麻呂が十一面観音堂を建立し、法相宗 霧岳山正福寺と称した。のちに円仁が中興し、天台宗 無夷山箟峯寺尊常住院と改めたとされる。箟岳山の西、加護山には国家安楽寺跡がある。木柱だけでここも何もない。涌谷町の箟峰寺の前身はここにあったとの説もある。
天武天皇勅願寺で、奈良時代の開基である。寺坊数十あり、衆徒数百人が住んでいたという伝承もある。陸奥国府多賀城が造られるより古く、陸奥経営の最前線基地であったものか。蝦夷の地の平定に関わる拠点があったのだろう。民心安定のため、武人だけでなく僧侶も赴いたようだから、陣地にはお堂や坊舎がたくさんあった。当時は政祭一致であり、お寺や神社は政治の一部だったのである。加護山国家安楽寺という名はそれを表しているように思われる。」
お堂の奥、山頂付近の夫婦杉は立派です。水田が広がる仙北平野を眺望できる将に地の利、要の地です。そこには征夷将軍田村麻呂1000年の供養碑があります。この地も蝦夷の聖地であったのでしょう。強風が吹き、その寒さに長居は出来ません。早々に退散しました。
次の目的地は大崎市の表刀神社です。表刀の読みは、ウエノト、ウワト、またはオトと読まれるとあります。東北新幹線の線路が直ぐ近くを通る、水田地帯の中に小高い丘に鎮座しています。神社の由緒は以下です
「表刀神社(うえとのじんじゃ)の創建は古く記録では 奈良時代の天平神護年間(七六五~七六六)ころと伝えられ延喜式内社奥州一百座の一と言われ十二の末社があったという。祭神は伊耶那美命(いざなみのみこと)の外に須佐之男命(すさのをのみこと)、武甕槌命 (たけみかづちのみこと)である。又戦国時代末期、 時の奥州探題、大崎義隆公が社殿修復の時、同時に 弁財天を祀ったといい、今は通称弁天様ともいう。
周辺は昔、千枝湖(ちえのみずうみ)という入りくんだ 湖沼で、古歌みちのくの華嶋山に陰(かげ)落ちて 木末(こずえ)に魚の、のぼるとぞ見ゆ。(読み人知らず) にあるとおりであった。付近一帯を弁天崎という。
昭和二十三年(一九四八)九月アイオン台風で蝦沢堤 (国道四号線)が決壊した時は沼田一面冠水し往昔の 千枝湖再現の観があったが萱刈潜穴の改修により一面 美田と化した。
明治四十四年八雲神社、羽黒神社を合祀した。 祭日は九月二十五日、社殿南方入口の笠松、東南の 大杉は古川市指定の天然記念物だったが、笠松(赤松) は虫害で枯れた。大杉は今も樹勢旺盛で市内最大の 巨木である。
神徳神威は五穀豊饒、商売繁昌、健康安全、夫婦円満、 子孫繁栄、交通安全、学芸上達、国家安泰、武運長久、 大願成就に霊験ありという。」
本殿は丘の上にあり、昇る参堂には何本かの鳥居があります。右手の斜面に御神木の大杉の巨木が抜きん出てあり、その存在感は強烈です。樹齢600年でエネルギーを周囲に放射しています。暫しその気に浸って楽しみました。