「本社は徳川時代初期になって隆盛に赴き、他の式内諸社を一足飛びに乗り越えて、三河一宮砥鹿神社と肩を並べる東三河の大社になった。」
とありますので、家康が賀茂神社の何であるかを感得していたと言われています。
祭神は賀茂別雷命、天忍日命、倭宿称命、天照皇大神、豊受姫命、菅原道真、宇気母知命、速須佐之男命です。所縁など紹介します。
「創建年は、孝徳天皇の御宇、白雉元年(650)とする説と、聖武天皇の御宇、天平元年(729)とする説とに別れています。三河國一宮の砥鹿神社とともに、穂の國(三河)鎮護の社として豊川の両岸に祀られたと考えられていますが、『延喜式神名帳』には列せられていません(宮司の話によると、三河は他國に比べ極端に式内社が少なく、朝廷の影響以上に、独自の風土文化を保っていたのではないか、とのこと)。鎮座地付近には複数の古墳が存在しましたがほとんどが滅失し、現在は参道横の神山古墳(円墳)のみ残っています。
神山古墳は、径28m、高さ3.5mの円墳で、内部主体は横穴式石室ではないかといわれています。おそらく5世紀末から6世紀初頭の築造と言われています。この地一帯も北部九州の流れをもった横穴式石室の古墳であったと思われます。この横穴式石室は北部九州の安曇族と呼ばれていた氏族の勢力圏で見られる石室であり、朝鮮半島では全羅道(朝鮮半島南西部)に同様の古墳が見られ、しかも弁天塚古墳とほぼ同時期に作られているのです。つまり、古墳の築造年月から考えて見ると、朝鮮半島南部から北部九州を経てここ、東三河まで続く巨大な海洋国家の存在が浮かび上がってきます。そしてその古墳のあったところに現在では賀茂神社が立てられている。」
「賀茂神社の賀茂別雷神を祀る賀茂氏には2つの流れがあり、一つは八咫烏に化身し神武天皇を大和の地に招きいれた賀茂建角身命を祖とする天孫系氏族、もう一つは大物主(三輪明神)の子である大田田根子の孫、大鴨積を始祖とする三輪氏族に属する出雲系氏族です。
彼ら賀茂氏の祭神は賀茂別雷神であり、現在は賀茂別雷神社(上賀茂神社)にてその神をお祀りしています。三河の地にある賀茂神社もこの分祀にあたる神社なのですが、明治41年に大伴神社を合祀しました。」
「賀茂神社の特別神事には、御生祭(みあれ)とか葵祭と呼ばれる賀茂別雷社に関するもの、競馬、爪切神事、大幡神事、がある。(中略)
賀茂の末社として昔は、貴船神社、大伴神社、片岡神社、黒田社、徳威社、棚尾者、若尾神明社、荒神社、八幡社、天神社、糾神社などがあった。境内社に淡島神社がある。徳威社は床與(とこよ)神の信仰を表すものであろう。
それに境内には神山古墳がある。造られた時期は6世紀前後で別名龍神古墳と言われる。照山南麓には、豪華な器台の出土した行者山古墳を始め、照山古墳、小照山古墳、弁天塚古墳など多くの古墳がある。
以上のように神社の由緒、神事、古墳などの状況から賀茂神社近辺が極めて古い歴史を持ち、国政に係わる重要な役割を有していたことが分かる。
又、砥鹿神社、津守神社、豊津神社、賀茂神社が取り囲む、照山と大和が日本の中心となる、政治の場であったということが、それぞれの神社の役割、歴史、神社史における日本国内での地位を思いは軽いことで浮かびあがってくるのである。」
と実は「古代神都東三河」の著者の前田豊氏は記しています。その他諸々を踏まえて、更に、「八名群誌」にある卑弥呼の神事、鬼道などその他の事跡などから、この東三河には邪馬台国(大和国、やまとのくに)があったのではとも考えています。
更に前田氏はアラハバキに関して以下のように述べています。
「「ハハキ」をハハ・キと分けて、ハハは母、キはチ「地(シュメール語)」と解釈した。アラは、顕現のアラではなく、荒蝦夷の荒(アラ)である。これは、シュメール語で、獅子神のアラであるという。 即ち、アラハバキは父である獅子神(アラ)と、蛇の地母神(ハハ・キ)の合成神である。 シュメールの神系に当てはめれば、天神アンと母神キの子エンリルであり、ギルガメッシュになる。アラ・ハバ・キ神族は、「獅子神」族と「蛇の地母神」族である。阿蘇部は獅子神族、津保化は竜女神即ち蛇神族であったとしている。
そして東三河に照らしてみれば、照山東南に賀茂族(獅子神族)、石巻山に三輪族(蛇神族)がいて、その2族の結合によって大国主(大巳貴尊)が生まれ、そのアラ御魂が「アラハバキ神」なのであった。本宮山に大巳貴尊とアラハバキ神が祭られているのは、やはり同一神であるからなのだ。即ち、アラハバキ神は天の御中主霊神が地母神と結合して、地上に産まれた天地を造り替える力をもった父神と同格の創造神(神の始めの神)と推定される。」
将に、石巻山ピラミッド文明、アラハバキから邪馬台国、大和国へとこの東三河は奥深い歴史の内臓されている世界です。
賀茂菖蒲園から赤い太鼓橋をわたり、鳥居を過ぎて参道を進むと右手に神山古墳があります。かなり荒れた状態で、草が生い茂り、暫く手入れが成されていない感じます。
更に参道を進むと本殿があります。本殿の手前には、「潜みの大楠」と称される樹齢1000年以上と言われる御神木の楠の巨木 があります。
この大楠には、徳川家康が元亀四年(1573)に野田城救援に出撃した合戦の時に、反対に武田勢に追われ、敗走した時、この大楠に身を隠して危うく危地を脱したという、逸話があります。広い境内に末社の粟島神社、貴船神社など鎮座しています。