2020年2月12日水曜日

1945「南福島巨石巡り16」2020.2.12

 今日の宿は郡山市の磐梯熱海温泉萩姫の湯「栄楽館」さんです。JR磐梯熱海駅近くで南側が磐越西線の線路が走っています。小綺麗な瀟洒な宿です。温泉も美人の湯で皆さんご満悦です。

 夜の食事も美味しく頂けました。今年最後のお泊り会ですから忘年会も兼ねてです。


大いに盛り上がり2次会も楽しい語らいの内に終えました。お陰様でゆっくり休めました。1階の部屋は宿の手違いで露天風呂付だった様で、部屋の方々は静かに大喜びでした。
 朝も元気に温泉を頂き、朝食バイキングで満たされてはつらつと2日目は8時に出発です。

天候に恵まれ最初の目的地は郡山市鶴石神社、双鶴の鶴石です。

「鶴石神社 双鶴の鶴石          郡山市中田町下枝六合内
 鶴石山の麓に当たる。鶴石山は、子育て山と言い、田村麿の後胤である浄野が山に捨てられた時、寺の庭の松の上に巣くった鶴の救われたと言う。
 一方、鶴石神社は坂上田村麿、東夷征討として陸奥の国に下向の時、阿口陀媛を愛して男子出生にまつわる鶴との因縁(山中に捨てしめしに2羽の鶴が来て育てた)。石は鶴の化身なりと言う。「(文化財第2集35頁・中田の史跡めぐり)」より。
右の鶴石(確かに両石とも丸い石ではないのだ、羽根の様に薄く風化しているのだ。)
  
左の鶴石詳しい事は(「郡山の伝説」御館郷土史 206頁)をご参照あれ。」

 この鶴石神社といい、昨日の日枝神社といいこの地方は坂上田村麻呂に纏わる言い伝え、伝説が多くみられます。福島県各地に残る田村麻呂の伝説を紹介します。

田村麻呂伝説 
「坂上田村麻呂の父・苅田麻呂が大熊に乗ってこの川を渡り熊渡に着きました。その地は最初屯田(みやけだ)と言われましたが、いつのころからか御代田と呼ばれるようになりました。屯田は苅田麻呂の直轄地の意味で、川には大熊川(阿武隈川)の名が付きました。(郡山市田村町御代田)
 国見山に大武丸という東夷の酋長が反乱を起こしたので、坂上苅田麻呂が直宣を受けて征伐に来ました。(郡山市中田町上石)
 ある晩、たまたま陣中に怪しい光が差し込むのに気がついた苅田麻呂がその光を頼って行きますと、木賊田(とくさた)村の清水で根芹を摘んでいる女がいるのを見つけました。その女は郡山の虎丸長者に仕えていた下女で、阿口陀媛という三国一の醜い女で悪侠と言われていました。しかし苅田麻呂には、比類なき天女のような美女に見えました。そこで陣中にその女を伴いました。(郡山市田村町徳定)
 間もなく苅田麻呂は大武丸を征伐し、「子供が成長したら都に尋ねてくるようにと」言い残し、都に帰って行きました。(田村地域)
 苅田麻呂公が京の都に帰られて間もなく、徳定熊渡の室家山童生寺で、阿口陀媛が玉のような男の子を生みました。阿口陀媛は木賊田の産清水で産湯を使わせ、徳定の抱上坂で赤子を抱き上げました。しかし子供が産まれて困ってしまった阿口陀媛は、赤子を田の畦に捨ててしまったのです。(郡山市田村町徳定)
 するとそこへ鶴が飛んで来て赤子を拾い、山の頂上の自分の巣に連れて帰って育てたのです。ところが赤子を拾った鶴は、石になってしまったのです。それを知った村の人々は驚き、阿口陀媛に赤子を戻して育てさせました。その子は鶴に拾われたことから、鶴子丸と名付けられました。それもあって、その山には鶴石山という名が付き、頂上には鶴石という名の石も残されています。また、この鶴石山の麓には、鶴石神社が祀られています。
(郡山市中田町下枝字平松)
 このため三春に住んでいる人は、誰も鶴を料理して食べることが出来ず、もし恐れずこれを食べれば、必ず崇りがあると言われています。(田村郡三春町)
 桓武天皇の時代、地獄田という所で一人の男の子が生まれました。その子は七歳のころになると、五尺もある立派な身体の持ち主となり墓を暴いて死人を食ったり暴力を振るうようになったので、親も恐れてその子を殺そうと考えるようになったのです。子どもはそれを察知すると家出をしました。何年か後、その子は大滝根に住んで滝根丸と名乗り、手下を大勢率いては旅人や村を襲っていました。村人たちは滝根丸のことを「あいつは鬼のように恐ろしい」と噂しまた滝根丸も自分のことを「俺は鬼だ」と言って益々悪いことをするようになりました。このように鬼が生まれたということから鬼生田という地名になったのです。(郡山市西田町鬼生田)
 鶴子丸は母に父のことを尋ね、印の品を携えて京都に上る決心をしました。やがて阿口陀媛が亡くなって谷地観音に祀られましたが、田村麻呂が手玉にして遊んだという手玉石がここにあります。(郡山市田村町徳定)
 やがて成人した鶴子丸が都に上り苅田麻呂公の邸前に着いた時、外れ矢が飛んできました。鶴子丸は、持っていた自分の矢を投げ返すと、矢音高く飛び上がり、邸内にいた苅田麻呂公の前に突き刺さったのです。怪しんで表を尋ねさせ、そこにいた小童を見て訳を聞き、はじめて自分のお子であることを知りました。それからは、生地の田村郡にちなんで田村麻呂と名付けられ、父のもとで育ちました。(田村地域)」