2020年2月13日木曜日

1946「南福島巨石巡り17」2020.2.13

 「蝦夷窟と呼ばれる十三の岩窟が南向きにあり、そのそれぞれに七~八人収容できる大きさのものであった。ここに蝦夷人が住んでいたと伝えられる。(郡山市田村町小川字下田)
 朝廷はこの地のエミシを退治するため、藤原小黒丸を征夷大将軍として派遣しました。小黒丸はエミシと戦いましたが利あらず、一旦退却して高幡山の宇奈己呂和気神社に戦勝を祈願しました。宝亀十一(七八〇)年九月十一日、小黒丸は下山してエミシと戦いましたが、今度は苦もなく打ち勝つことができました。(郡山市三穂田町下守屋)
 桓武天皇の延暦二十年、千島大多鬼丸の残党が霧島山(大滝根山)の岩谷にこもり悪行を重ねていたので、田村麻呂将軍が征討にやってきました。(田村地域)
 田村麻呂は、白河付近の国見山で賊を滅ぼしました。(白河市)
 坂上苅田麻呂の子が、奥州宮田村(郡山市西田町宮田)に産まれました。母は高野郡(今の田村地域南部と石川郡北部を合わせた所らしい)に住んでいた橋本光忠の娘・阿口陀姫で、これがのちの、田村麻呂になりました。田村麻呂は赤津四郎という賊将を打ち破りますが、赤津四郎は多田野村(郡山市逢瀬町多田野)の「鬼ヶ城(地名)」の鬼穴で、または赤津村(郡山市湖南町赤津)布引山の鬼穴で、あるいは丸守村(郡山市熱海町)大峯の蝦夷穴(不動尊の地)で、またその他にも喜久田村(郡山市喜久田町)小室山で、さらには鬼生田村(郡山市西田町鬼生田)で産まれたと伝えられています。
 鬼ヶ城には鬼穴という大きな岩窟があり、麓の谷の両側には数個の蝦夷穴が並んで街路のようでした、
 田村麻呂は「鬼ヶ平」で対戦し、赤津四郎を射殺しました。血引き金山、矢もぎ山、鬼ヶ平、十牧おって山、真弓山、萩袋、大峯不動尊は、赤津四郎に関係する旧跡です。(郡山市熱海町)
 縁起その他判然としないが、古老の言い伝え等によると「桓武天皇の御宇、田村将軍奥州達ヶ窟に籠りたる、酋長悪路王を伐って平定御凱旋。当時矢田野辺、広原茫々、此処の彼処に人家あるのみ、将軍広原に出給う時、天に祈り、国土守護のため大矢を放つ、此の大矢をもって磐女の神を祭り、磐女大明神として敬う」とあり、矢田野の地名もここから生まれたものと思考され、坂上田村麻呂の勧請と言い伝えられている。(須賀川市大字矢田野字岩ノ上六一 磐女神社)」

 集落を抜け鶴石山に向かう道を上り鶴石神社に到着しました。鶴石山の開けた東斜面の道路沿いにあります。丁度朝の陽ざしが燦燦と降り注いでいます。小さな神社で余程の事でもないと地元以外の方が訪れる事は無いのではないかと思います。


 小さな社の両側に「双鶴の鶴石」が鎮座しています。何故にこの場所を選んだかと言うと、木内鶴彦さんの鶴繋がりで、鶴石神様のご加護で2020年には更に羽ばたいて頂きたい、の願いです。


  鶴石は対になっています。元々この地にあったのか、逸話に絡めて運んで来たのか?この程度の石だと運ぶのは難しくない気がしますが果たして如何でしょうか。神社の祭神も不明です。しかし広い立派な道路の脇にあり道路向かいの駐車場もそこそこの広さです。地元で産土神社として大事にされているのでしょう。




 まぶしい程の太陽を頂き、温かさの中で鶴様を満喫しました。






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