丸池様には採捕場の駐車場から歩いて直ぐに牛渡川を渡りますが、川は清く澄んでいます。この牛渡川は鳥海山の湧水のみを水源とする川でどこまでも澄み渡り、清流の象徴の梅花藻(ばいかも)がいっぱいです。初夏には白い花を咲かせるようです。
小さな橋を渡り、道を進むと右手の林の中に巨石が1つあり、過ぎて直ぐに左手に林の奥に丸池が現われました。その池の色はエメラルドグリーンで神秘的な世界で、その自然美に魅了されます。曇り空で今ひとつ色の輝きの冴えがありませんが素晴らしいものです。
丸池様には以下の様な紹介があります。
「丸池は湖面がエメラルドグリーンに輝き、神秘的な雰囲気があることから古くから「丸池様」と呼び信仰の対象になっていました。直径20m、水深3.5mの池の水は全て鳥海山からの湧水から賄われ、池自体を御神体とする丸池神社が祀られてきました。
その事から丸池神社は鳥海山、月山を御神体として出羽国一之宮である大物忌神社摂社となり、鳥海山信仰の一翼を担う重要な史跡として国指定史跡に指定されています。
又、境内の社叢や丸池は神域として伐採や漁労が固く禁じられてきた為、古代からの自然形態が残され遊佐町指定天然記念物に指定されています。」
池を眺めて写真を撮っている方も沢山でしたが、先に進んでいた中山さん達は丸池神社のところで楽しげに手で腿を打ち鳴らし、喜びのパフォーマンスをして早く皆さんが揃うのを待っておられました。
「ありがたや ありがたや 共々の、皆々様方、揃いて、参りて、この響き、嬉しやな、嬉しやな。
是よりこの地、この地球、地の中より気を出だし、しっかり皆々、繋がりて、大きなる新しきへ、変わり行く。
全ての余分を取り除く、大きなる事、成し行くは、この響き。
ありがたい、嬉しき、喜びのお言葉です。そして、「全ての余分を取り除く、大きなる事、成し行くは、この響き」との事です。更なるあわ歌の響きが求められています。
お陰様で、今回の巡りは目出度く、ありがたく初期の目的を達成することが出来ました。晴れ晴れとした満足感、充実感で中山さんはじめ皆さん喜びいっぱいです。丸池様の素晴らしい神秘な世界を堪能してその地を後にしました。
お陰様で、今回の巡りは目出度く、ありがたく初期の目的を達成することが出来ました。晴れ晴れとした満足感、充実感で中山さんはじめ皆さん喜びいっぱいです。丸池様の素晴らしい神秘な世界を堪能してその地を後にしました。
少し遅い昼食は20分ほど車で南に進んだ酒田市の山間にある大松家さんです。ここも大きな古民家を改装したお店で、炭火焼の田楽のコース料理を頂きました。囲炉裏を囲んで山海の恵みの炭火焼きを楽しみました。丸池様であわ歌を歌うところは終わりで、後は観光です。中山さんも安心して熱燗を召し上がり頂き、皆さんも心満たされて美味を堪能出来ました。
食事を頂いて外へ出ると、太陽の強烈な輝きが私たちを迎えてくれました。暫し、その光の世界に身を委ねて写真撮影に興じました。
巡りの最後は酒田市内にある土門拳記念館です。酒田市出身のカメラ作家の土門拳さんの作品の常設館です。そこに向かう途中、これまた厚い雲の空の中に太陽の強烈な瑞光(吉兆を示すめでたい光)が下ろされています。車を止めて写真を撮らせて頂きました。
土門拳記念館は飯森山公園の中にある、池に面した洒落た建物です。時間も16時を過ぎて夕闇が迫る中皆さんと見学しました。
「1974年 酒田市名誉市民第1号となった土門拳は、自分の全作品を郷里酒田市に贈りたいといわれた。酒田市はそれにこたえ、1983年 土門拳記念館を完成した。
土門拳記念館は日本最初の写真専門の美術館として、また、個人の写真記念館としては世界でも唯一ものといわれ誕生した。土門拳の全作品 約7万点を収蔵し、その保存をはかりながら順次公開している。」
展示作品の常設の「古寺巡礼」、企画の「土門拳没後25年 ぼくの好きなもの」「筑豊のこどもたち」を観ましたが皆さん強い感動を頂いていました。
土門拳の写真については以下の表記があります。
「実物がそこにあるから、実物をもう何度も見ているから、写真はいらないと云われる写真では、情けない。実物がそこにあっても、実物を何度見ていても、実物以上に実物であり、何度も見た以上に見せてくれる写真が、本物の写真というものである。
写真は肉眼を越える。それは写真家個人の感覚とか、教養とかにかかわらない機械(メカニズム)というもっとも絶対的な、非情なものにかかわる。時に本質的なものをえぐり、時に瑣末的なものにかかずらおうとも、機械そのものとしては、無差別、平等なはたらきにすぎない。そこがおもしろいのである。
写真家は、機械のうしろに、小さく小さくなっている。写真家が小さくなって、ついにゼロになることは、なかなかむずかしい。せいぜいシャッターを切るとき、あっちの方を眺めるぐらいなものだ。写真の中でも、ねらった通りにピッタリ撮れた写真は、一番つまらない。「なんて間がいいんでしょう」という写真になる。そこがむずかしいのである。」
土門拳の古寺巡礼の冒頭に、以下の様な言葉があります。
「最初に僕の心を捉えたのは、弘仁時代の一本造の仏像だった。内部に鬱積するものを自然に流露させるに至らず、まるで怒っているみたいだ。苦渋な表情をたたえた弘仁彫刻は、それはそのまま当時は、戦争政策の進行とともに、戦争以外の全ての道を閉ざされた日本知識階級の表情とも受け取れた。」
弘仁(こうにん)時代は坂上田村麻呂が蝦夷を平定し、亡くなったあたりで、弘仁貞観文化は詳しくは以下です。
「嵯峨天皇の弘仁年間(810年―824年)と清和天皇の貞観年間(859年―877年)をさす文化史・美術史の用語。最澄・空海による天台・真言両宗の興隆に応じて密教美術が栄え神秘性の濃い仏画・仏像が制作された。」
興味のある方は以下も参考にして下さい。
(仏像―弘仁・貞観時代) http://www.eonet.ne.jp/~kotonara/butu-kouninn.htm
古寺巡礼の巨大な佛像の顔面、その姿は強烈な印象を与えてくれました。来年から仏の世界を巡る覚悟を決めている中山さんにとっても、この佛との対面は今回の巡りを締め括るとてもタイムリーで必要な出会いだったようです。
とっぷりと日が暮れて仙台への帰路に着きました。車中厳しきお言葉がありましたが、明らかにすることが出来ません。来年の巡りに繋がるところだけ抜粋してみると、
「影踏みて、この地にありて、闇なる所の見えざる輩、是より参りて、大きなる光を響きと共に送り行く。参りて、共々全てを統べる大いなる供と成られませ。この地の強き力と成りて、宇宙へ繋ぎて参ろうぞ。
篩いは激しきなれど、皆々の思いは強きなれば、定めて参ればひとつなり。いざ いざ参れ。ようよう参るこの時成れば、写して見せます全ての新しき仕組みを。」
来年3月5~6日、4月9~10日の2回に分けて奥州33観音菩薩霊場+特別3観音菩薩の36箇所を巡ることが決まりました。おわ歌の音を響かせ音を観る境地を巡る世界です。いよいよ33、36の世界の幕開けです。33には以下の様な意味があります。
「高い波動 菩薩 無償の愛 常識の枠におさまらない物質世界を超えた精神世界、宇宙愛、人類愛。菩薩の域を暗示する数字。33の持つ波動があまりに高いため、この数字は一般的な常識では図れず、理解されにくいとされる神聖で特殊な数字。」
「観世音菩薩はあまねく衆生を救うために相手に応じて33の姿に変身する”と説かれ、三十三観音信仰のもととなりました。菩薩様は、衆生(生命あるもの全て。特に仏教界では人間をさします)に、広大無辺のあたたかい救いの手を差し伸べてくれます。」
今回、このみちのく光を繋ぐ巡りを年の瀬の押し迫った中に開催し、このブログを大晦日12月31日に書き終えました。これで12月は36個ものブログを上げることになり、是までの最多です。来年の33観音菩薩巡りにも繋がる数にも思えます。全ては次なる事への橋渡し、前提条件になります。
年の瀬の意味を調べると
「瀬には、川の浅い箇所、流れの速い場所という意味があります。つまりは、単純に一年の末や暮れが近付いているというよりは、鬼気迫った状況を洗わす言葉が年の瀬なのです。」
明日からの2016年、新年が厳しい中でも皆様に素晴らしい年になる事を念願するのみです。私も大掃除をして場も心身も整えて新たなる明日へ向かいます。