「1046「丸太6」2017,8,29」
http://tenmei999.blogspot.jp/2017/08/10462017829.html
順調に車は進みます。前回のおまわりさんに先導していただいたお話を披露して、車中は笑いを頂いています。駐在所前を通りましたが、あの時のお巡りさんが居るかなと見たのですが、残念ながら今日はクローズしていました。あの時は大いなる存在のお導きだったようです。
お堂の紹介は以下の様に記されています。
「岩手県紫波郡紫波町佐比内字片山にあり、石灰岩の洞窟にて高さ三・五米、幅二・六米、奥行八・五米、入口は楕円形にて風光頗る佳なり。
平安時代桓武天皇の延暦年中、征夷大将軍坂上田村麻呂東征の際、洞窟に隠伏せし蝦夷を平定し観音像を安置して戦勝祈願と戦没士卒の冥福を祈り創立せしものと伝う。
本尊は聖観音像にして、当国第十四番札所なり。
御詠歌
「ふだらくは よそにあらじ岩谷寺 大悲の光なべて照らさん」」
皆さんで岩屋の洞窟に入り、岩壁の両側に立ってあわ歌を響かせました。その時のお言葉です。
「よくよく耐えて参られました。
今この時の、この響き、逃さず共々離れ行き、
大いなる広きへ参られませ。」11:53
歌の途中に中山さんはしゃがんで私の足元の地面に手を手をかざされました。私は良くわからずに居たのですが、若い女性の顔がそこに在ったようです。
中山さんは「よく上らなかったね…」と話されました。つまりこの地に留まり、成仏していないという事でしょうか。その時に私は遠野南部藩の初代藩主の奥方が盛岡で無くなり、自藩の領内に入って直ぐのこの地、佐比内で荼毘に伏されたことを思い出しました。
その事を中山さんにお話したら、その姫君かもしれないねとおっしゃいました。そこで私は遠野南部藩の概略と清心尼のこともお話しました。
以前のブログから引用して記します。
「八戸根城南部20代・直政公の奥方ネネ(清心尼)は兄の娘です。直政公亡き後、八戸根城21代当主になります。南部藩で唯一の女当主です。その清心尼について以下の記載があります。これを読むと、今NHKの大河ドラマの「女城主直虎」みたいです。」
「「清心尼」が殿様として在席したのは、夫直政に死なれた慶長十九年(1614)から息女の愛子に新田弥六郎直義を婿養子として、これを後継にした寛永四年(1627)までの14年間は公的に殿様としての公務をこなし、遠野に移封後も利直は直義を人質として手元から放さない為、「清心尼」が実際の実務を直義(改め直栄)に代わって遠野を治めました。
これは亡くなる正保元年(1644)まで続いたのですから、後合わせて実に31年間の長きにわたって殿様としての勤めを果たしました・・・。
正保元年に59歳で没したと伝えられていますので、夫直政に死なれ未亡人になったのは29歳の時ということになります…。
夫直政はというと、天正十四年(1586)八戸南部氏18代政義(政栄)の二男として生まれていますので享年28歳と若死にでした…」
詳しくは以下を参照下さい。「1047「丸太7」2017,8,30 」
http://tenmei999.blogspot.jp/2017/08/10472017830.html
盛岡のKさんがお姫様にかぶって来る感じもします。この女城主清心尼のお墓が遠野市に在りますが、その日の最後に中山さんの発意でお参りする事になりました。詳しくは後で記します。