2016年7月12日火曜日

632「岩手巨石巡り6」2016,7,12

 冠山蝙蝠岩弘法大師霊場は花巻市浮田町毒沢南にあり、丹内神社から10分弱で直ぐに到着です。
「当霊場は、伝説によれば、後の弘法大師空海が、唐の国(今の中国)に渡る前の諸国巡錫(じゅんしゃく)の途中に休息されたところ、全国に数多くある杖立て伝説が語り伝えられている一つの霊場である。」
とあります。果たして弘法大師がお越しに成ったか分かりませんが修験の場として活用されたのでしょう。大師堂奥の巨石の室には人がようやく入り込める隙間があり、中は3畳程の空間があり大師様が祭られています。周囲の山には巨石がごろごろと沢山散在してあり。これらも明らかに人工のもので何らかの影響で崩れて今の様相になったのではとのことです。






 多岐神社は北上市立花にあります。北上市に向かう国道から左に下り山間の集落、田んぼを抜けて奥まったところにあります。以前にあった鳥居が無くなっていましたが、静かに社が、その奥には東光水の滝がありました。2mほどの巨石を滝が流れる姿は心洗われる感じです。
 多岐神社由来は以下です。
「(北上市)指定文化財 正一位 多岐大明神
 抑[そもそも]、多岐大明神と申し奉るは、往昔人王五十代桓武天皇の御宇、征夷大将軍坂上田村麿、勅命を奉じ東国の鬼神首領、悪路王高丸其の外これに組する鬼神共を退治の為、陸奥に下りけり。
 稲瀬の奥なる三光岳に潜居する岩盤石と申す鬼神、悪路王に組して、余多の手下(を)擁して其の勢力大なるに、将軍三百余騎を差し向けて攻めるも、巌窟峻険にして容易に攻め難く、止むなく北東に迂回して背後より攻め破らんとせしも、路に迷いて難渋、加えて六月中場の炎天、軍兵渇して疲れ倒れる者出る始末なり。
 このとき八十余の翁、薪を背負いて通るを、此の辺りに清水の湧き出づる処無きやと問うに、此の先に清水の湧き出づる泉あり、下流に瀧有りと申したれば、その瀧に到りて陣をとり、渇を癒しければ、兵勇気百倍となり士気大いに揚がる。而かして翁の案内にて三光岳を急襲至しければ、流石の岩盤石も三百余打討られ北方へと逃げされり。
 将軍翁を召して其の功を賞し、砂銀を当分として与えたり。
 其の後将軍、鬼神悪路王其の他の鬼神共を討伐、帰京のみぎり、当所に立ち寄りて、かつての翁を尋ぬるに、村人申すには其の様な翁の住居も無く知る者も無しと、かへりみるに此の地に東光水と申す瀧ありて、この水にて妻の木の枝なるを煎じて用いれば病気直ちに全快するとの霊地あり、翁は其の瀧の化神に非ざるかと申し上げたれば、将軍不思議に思い、瀧に参りて見渡すに……瀧の下なる石に砂銀置かれ在るを見る、些ては矢張り翁は化神にて征軍の難渋しあるを見兼ね、自づから御導引きになられたに相違ないと、その有難さに、瀧の落つるに向いて三度礼拝し、命じて一社を御建立、多岐宮と号し崇め玉もう。
 ときに、延暦二十一癸未年八月の事なり。
 後代に至り藤原仲光、立花村高舘に住みし頃、干ばつ冷温が屡々有りたれば村民困窮の処、東光水の流れる処は独り五穀実りしは多岐宮を祈誓護持し参りし仲光の至誠通じたるか、神の恵みに村人その有難さに参詣怠らずとか、云々。此の由、都に聞こえければ、関白藤原頼通、帝に奏上成りたれば、帝此れを嘉みし、三井兼平を勅使として御遣わしになられたり。
 依つて御堂三間四面を再建され、境内二丁四方、山林十丁を附属して神社守護の礎とし、稲倉大明神と改号せり。
 御堂再建を祝つて三井兼平
「都にて聞きしに満さる多岐の宮  峯の古木に照らす月影」と詠みたり。
 時に長元八年四月、後一条天皇の御宇なり。
 文政七年に至りて、此れまでも神社の修復、改築は数度行われてきたのだが破損甚だしくなりたれば、南部家の地頭桜庭十郎衛門の助力と近隣の寄附により建立したのが現存の神社にして、彫刻の精巧さは稀少の物とされている。
 多岐神社例祭 宵祭り  九月十四日  本祭り  九月十五日」






 樺山遺跡は北上市稲瀬町にある縄文遺跡でここは格別なロケーションでお気に入りの所です。太陽の強烈な光を浴びながら暫し古の時空に遊びます。木内さんのお話も弾みます。




 樺山遺跡は、立石をともなう石組みの配石遺構(ストーンサークル)が注目を集め、国の指定史跡になっています。以下のような紹介があります。
「この遺跡は、縄文時代中期の配石遺構群を伴う、縄文時代前期末から後期にかけての集落跡です。特に、配石遺構と呼ばれる石組み群が、丘陵西側の緩い斜面部から平坦部にかけての一帯に不規則に分布し、石を組んだモニュメントが37個発見され有名になりました。
 東側の高台上には約5,000年前の村が、西側の斜面には約4,000年前の村があり、モニュメントの造られた時期は謎の一つです。 
 個々の石組みの石の並べ方にいくつかの型が認められますが、花崗岩(かこうがん)の細長い川原石1個を立てた周りに、数個の山石を放射状に並べたものを典型とします。石組みの下は少しくぼんでいますが、土こう(あな)と言えるものではありません。石組みに伴って出土した土器や石器から縄文時代中期のものと考えられます。
 配石遺構は、縄文時代前期から知られていましたが、樺山遺跡以降の代表的なものとして、秋田県鹿角市の大湯勘定列石があります。これは縄文時代後期のもので、石組み群の中の日時計と呼ばれているものが、樺山遺跡の石組みに似ており、樺山遺跡のものを祖源とみることができます。」

 最後の目的地の磐神社は奥州市衣川区にあり、田んぼの中にぽつんと神社があります。御神体は後ろにあるアラハバキの巨石です。巨石の大きさは幅は10m、高さ4mで、近くには安倍館跡があり、安倍氏が崇敬社で「荒覇吐神(アラハバキ)」として祀ったようです。






 夕暮れの中、全ての予定を終えて帰路に着きましたが満月も綺麗です。仙台駅には20時前に到着して目出度く散会となりました。




次回の木内さんの巡りは山形県を中心に9月18~19日ですのでご縁の方は楽しみに参加下さい。

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