2018年6月18日月曜日

1339「十字7」2018,6,18

 猫山の紹介です。
「「右 岳に至る」。古道跡の傍らに建つ石碑に刻まれた文字から、かつて、合石が早池峰山へ向かう人々にとって交通の要所であったことが窺えます。また、非常に古い時代のものとされる石英混じりの石に「南無阿弥陀仏」と彫られた供養碑もあり、一説によれば、これは外川目一帯で盛んであった金の採掘に関わった人々を供養しているものだ、とも云われています。集落には、江戸時代に起源をもつ合石神楽が伝承されています。
 合石集落の奥にある猫山は、標高920メートルの花崗岩の山です。頂上からは、雄大な早池峰連峰が一望できます。昔の人々は、里から猫山を見て、奇岩や巨岩が連なる様子を「猫山の石景」と呼んだようです。
 猫山の石景の代表的な石としては、合石の地名の語源とされ、まるで包丁で割ったような姿の巨石「合石(あせし)」。
 周囲21メートル、付き出た石の下には50人ほど入ることができる空間を持つ「覗石(のぞきいし)」などがあります。山腹では、明治時代に、珍しいモリブデン鉱石を採掘しており、宮沢賢治の作品「風の又三郎」に登場するモリブデンに絡むストーリーとよく似ていることが指摘されています。」
http://www.act.jpn.org/nekoyama/shuraku/awaseishi.html

 集落から林道に入り、悪路を5キロ程登ります。途中、巨石が点在しています。20分程でしょうか、車に揺られて「のぞき石」に到着です。ひさしの様に飛び出た巨石の姿に皆さん驚きです。蛙の様にも見えるのですが何故こんな姿になったのか不思議です。
 沢山の蝉の鳴き声が出迎えてくれました。木々の間からの太陽の光も心地良い感じです。石の上に上ったり、暫し散策し自然のエネルギーを満喫しました。






 のぞき石の底辺部にある平たい巨石の上であわ歌を響かせました。その時のお言葉です。
「大事になさりて、この光を。
 皆々様のその身に入れて、大いなるその身の全てに伝えませ。
 新たなるなり。
 この光は響きと共に是よりを現す。
 うたかたは流し行く。」16:02

 のぞき石を後に、山を下ります。次の目的地は新山高原の石割り桜の巨石です。遠野市内を経て貞任高原を目指して国道340号線を北上します。市内を抜けて進むと前方の山頂に風力発電機が林立し、連なっているのが見えます。その山をぬう様に進むのです。
 山口の水車小屋に向かう様に国道340号線から右にまがり、水車小屋への分岐を左にすすみます。この道路はスリーグリーンラインと言われ、貞任山・五郎作山・石仏山と連なった山道を新山へと行きます。東西に連なる山々の峯を走り太平洋の大槌町に抜ける知る人ぞ知るドライブコースです。途中にウインドファーム、風力発電が沢山林立しているその直ぐ下を通り抜けて行きます。そこから早池峰山の眺望は素晴らしいものがあります。







 

2018年6月17日日曜日

1338「十字6」2018,6,17

 大いなる光をいただき、ひとつとなり、満たされた皆さんには自然に和みの笑顔が輝いています。秋田県大仙市から次なる目的地は岩手県花巻市です。車は秋田自動車道を車は軽快に進みます。その車中でこの神宮寺のことが話題になりました。
 私が神宮寺岳を知り程なくして、この地を震源地とする大きな地震が起きています。その事を伝えると、中山さんは直ぐにその地震のことを検索されました。何しろ、1日のお言葉に揺らぎがあったからです。
「明日の光は新しきぞよ。揺らぎて参るぞ。この地は全てが揺らぐ。
 その時、この身が発する音はあ~。揺らぎは赤き山にあり。」

 最初に1914年のものが出てきました。
「秋田仙北地震は、1914年3月15日午前4時59分44秒、秋田県仙北郡(現・大仙市、旧・西仙北町)を震源として発生した。別名を強首地震(こわくびじしん)という。地震の規模はM6.4-7.1。
 秋田市で最大震度の5を記録したほか、北海道から東海地方にかけて震度1以上の揺れを観測した。震度の数値はそう大きくはないが、94名の死者を出した。当時、各地の震度をまんべんなく測定する体制はとられていなかったため、仙北地方の震度の記録はないが、全潰率と全半潰率から求めた震度分布では、強首村で震度7程度の非常に強い揺れがあったと見られている。」

 私の知っているものは数年前のです。更に調べてみると昨年2017年の地震の記事が出てきました。
「秋田県内陸で強い地震 大仙市神宮寺で震度5強
 9月8日22時23分、秋田県を中心に強い地震がありました。気象庁によると、秋田県大仙市神宮寺で震度5強。 震源地は秋田県内陸南部で、地震の規模はマグニチュード5.3と推定されています。この地震による津波の心配はありません。」

「速報 大仙市神宮寺の地震 未明から続発中 街部のため注意 2017/9/13(水) 午前 5:55
 九月十三日 未明から再び活動が活発になつています。最大は 今日午前四時の地震で マグニチュードは3.4 深さ10.2km。メカニズム解は 北西から南西に伸張力の横ずれ型断層地震です。暫定 震源は 大仙市神宮寺字新丁。大仙市大曲で 震度3.2」
 
 何故、この地が震源地に成るのか不思議です。この場所も地球の中心に繋がる重要な箇所なのかも知れません。昼食予定の時間を過ぎていますが致し方ありません。でも全てが順調です。

 昼食は13時過ぎに花巻市東和町の道の駅の中のレストラン日高見で盛岡冷麺+ミニ寿司のランチを頂きました。皆さん冷麺が美味しいとご満悦です。


時間が押していますので午後の行動開始です。目指す目的地は花巻市大迫町外川目第7地割の合石集落を超えて猫山にある「のぞき石」です。

 猫山は宮沢賢治の「風の又三郎」のモデルになった山とのことで、賢治に所縁がありそうです。大迫町には「早池峰と賢治の展示館~猫の事務所~」があります。展示館は旧稗貫郡役所を復元したもので、宮沢賢治の童話「猫の事務所」のモデルではないかと言われております。そこには風の又三郎の舞台ともいわれる猫山のモリブデン鉱石などを展示しています。猫様がユニークで結構楽しめるのです。


 今回は猫の事務所はスルーですが以前に見学した時の写真などを紹介します。









2018年6月16日土曜日

1337「十字5」2018,6,16

 実は仙台を出ての車中で中山さんから、「昨日、1日に「揺らぎは赤き山にあり」と言う言葉があったのですが、今回の巡りで赤い山はありますかね?」と尋ねられたのでした。赤い山?・・・です。巡る行程の中で山を思い浮かべていました。神宮寺岳くらいしかないのですが赤い山ではないし。でとりあえず「山は猫山と神宮寺岳くらいしかないので神宮寺岳でしょうかね。」と答えていました。
 その中山さんのお言葉は以下です。

「定めたるはこの身なれば、新たなる響きを発せば、
 ひ、うる、うる、うる
 明日の光は新しきぞよ。揺らぎて参るぞ。
 この地は全てが揺らぐ。その時、この身が発する音はあ~。
 揺らぎは赤き山にあり。」22:44

「明日の光は新しきぞよ。揺らぎて参るぞ。揺らぎは赤き山にあり。」です。これは頭の片隅に置いておく必要があります。先ほどの青龍大権現ではなさそうです。
 
 改めて神宮寺岳(副川岳)の概要を紹介します。
「神宮寺岳はその山容が秀麗で、角度によっては綺麗な三角錐をしている事から古代自然崇拝の対象になっていたと推定されています。奈良時代に入り大和朝廷の権力が出羽国まで進出すると、当時は当地域が蝦夷との国境だった可能性が高く、秀麗だった神宮寺岳(当時は副川岳と呼ばれていたと思われます。)の山頂に副川神社を勧請し北方の守護神としたと思われます。
 延長5年(927)に編纂された延喜式神名帳に記載された所謂式内社は秋田県内では副川神社、波宇志別神社(保呂羽山)、塩湯彦神社(御岳山)の3社しかなく、重要視されていた事が窺えます。中世に入ると神仏習合し熊野信仰なども絡み修験の地となり、さらに八幡信仰が合わさった事で次第に副川神社本来の信仰が薄れていきました。その後、里宮だったとされる宮が八幡神社となり信仰が移った為、副川神社の存在が失われ、神宮寺岳の山頂の宮は何時しか嶽六所神社と呼ばれるようになりました。副川神社と嶽六所神社の関係は不詳ですが、嶽六所神社の創建は大宝年間(701~04)に勧請したとも、坂上田村麻呂が勧請したとも伝えられています。 
 祭神は六所明神(稻倉魂神、五十猛命、金山毘古命、高彦根命、大己貴命、事代主命)で副川神社が祀っていたとさえる「杉生の神」とも異なります。正徳4年(1714)、久保田藩4代藩主佐竹義格は古社の再興に尽力しましたが、副川神社は神宮寺岳では無く、現在の八郎潟町の高岳山山頂に再興しています。当時、副川神社の信仰は廃れ、古社地が判明出来なかった為、政治的な理由で遷座したされ、後にこの事が理由に郡名を変更したとも云われています(延喜式神名帳には社地が山本郡だった為、新たに再興した副川神社が鎮座する土地も山本郡でなければならないという理屈、逆に言えば現在の大仙市や仙北郡は古代には山本郡と呼ばれていた地域。)。又、戊辰戦争の舞台の1つでもあり、官軍だった久保田藩は神宮寺に本営を設けて神宮寺岳を要塞化させ、進軍してきた庄内軍と激しい攻防戦が繰り広げました。」

 大仙市神宮寺の雄物川の中川原コミュニティー公園の河岸から、雄物川越しに神宮寺岳の神奈備山としての全容を見れます。美しい姿です。自然を崇拝した古人には神宿る山と写り、大事にして崇め讃えたことがうなずけます。山麓には縄文時代の遺跡の小沢遺跡もあります。
 神宮寺岳の存在を知り、何度か足を運んで探索し、その中でベストなビュウポイント、あわ歌を響かせるに適した場所がここです。公園には野球場がありますが、川岸の道路から川岸にある船着場のような空間があり階段で川岸に下りられます。






 そこに陣取り、川岸から立ち上がる端整な神宮寺岳を真正面に見、燦燦と輝く太陽の光を浴び、雄物川の豊かな水の流れ、川面にきらきら輝く光を楽しみました。座り込んでいた中山さんが真っ赤だと言います。私には普通の景色なのですが、中山さんには全景が赤のスクリーンの中の様です。「昨日のお言葉の「赤き山」はここだ。」と言います。
 最初にお言葉があり、その後、皆さんであわ歌を響かせました。その時のお言葉です。
「助くるなり。
 今より開くはるかなるへの道、響きて伝える。
 〜あわ歌〜
 この光、この時にしっかり受け取りてくだされ。
 大いなるものなり。
 千載一遇、今日の日、この時ぞ。
 両手を 差し出し、共々ひとつとなられませ。
 光の子、大いに喜び、ここへと参り来た。
 嬉しきなり。」12:35

千載一遇の時、この場に光の子が集まり来たようです。嬉しきなりです。


2018年6月15日金曜日

1336「十字4」2018,6,15

 青龍大権現を後にして「山のはちみつ屋」さんでトイレ休憩です。各種はちみつの商品の味見をして暫し楽しみました。
 次の目的地の秋田県大仙市にある神宮寺岳に向けて出発です。神宮寺岳は私のお気に入りの所です。何度か訪れていますが何故か惹かれるのです。その神宮寺についての記事を一部抜粋して紹介します。

「僕の地元のこと-秋田県大仙市神宮字
 この記事では僕が生まれ育った土地、秋田県大仙市神宮寺のことを紹介したいと思います。(歴史的考察については個人的な仮説に過ぎない部分が多々ありますので、ご注意ください)
 まず「神宮寺」という地名をよーく見てください。どこか違和感がありませんか?「神」といえば神道。「寺」といえば仏教。そもそも、「神宮寺」とは神仏習合思想の下、神社の傍らに建立された寺のことを指すそうです。恐らくこの本来の意味での「神宮寺」という言葉が、そのまま地名として用いられるようになったのではないか、という説が有力です。
 では、その「神宮寺」は何のことを指すのか。町のシンボルであり、町民歌から町内の施設に至るまで名前が使われている「神宮寺嶽(嶽山)」の山頂が、その神宮寺の在所になります。

 神宮寺嶽の山頂には現在「嶽六所神社」があります。毎年三月の第三日曜には梵天(ぼんでん)の奉納が行われるこの神社ですが、元々は日本史の教科書にも載っている「大宝律令」が成立した大宝年間にあたる701年~704年に建てられたと言われています。
 その当時、神宮寺嶽は「副川岳」と呼ばれていました。雄物川と玉川の合流地点に位置する円錐の形良い山であり、「副川」を名とする神様が隠れ住まう山(神奈備山)に極めてぴったりな山容であったため、その名がついたとのこと。その「副川岳」に大宝年間に建てられた神社は「副川神社」と名づけられました。その後、山岳信仰の修験の拠点となり、神仏習合の典型的な場所となった事から、「神宮寺」という地名に繋がったのではないか、という話でした。

神宮寺の地理的特徴
 調べてみると、神宮寺はなかなか歴史のあるところだということがわかりました。ここで疑問に思うのが、なぜ県内で数少ない式内社が神宮寺に建立されたのか、という点です。
 おそらく、古くから物流や宗教の面で政治的に重要な拠点だったのではないか、と推測されます。
 地理的な特徴としては、やはり神宮寺嶽のふもとが雄物川と玉川の合流地点であったことに目がいきます。川は古来より物流における重要なインフラであり、院内銀山が栄えていた当時には、神宮寺においても酒蔵が立てられ、大消費地である院内にお酒を輸送していたという話もあります。また、江戸時代には羽州街道が通っており、保呂羽山へと続く街道への結束点であったことから、川湊としての機能とあいまって、久保田藩が駅伝馬役所などを配したとされています。これらは江戸時代以後の話ですが、古くから交通や流通の拠点となっていたことは想像に難くありません。
 また、神宮寺嶽は地域内であれば様々なところから望むことができます。その姿形はなるほど確かに綺麗な円錐をしており、古代の人がこの山を見て山岳信仰の対象としたという話もうなずけます。

大宝律令の以前・以後
 時間軸で見たときに気になるのは、やはり副川神社が建立されたとされる701年~704年の前後のことです。この時期の歴史的出来事といえば、先ほども紹介した「大宝律令」の制定及び施行です。「大宝律令」は朝廷の中央集権体制を固めるために定められたもので、当時朝廷の支配が及んでいた全地域に一律に施行されました。このタイミングで副川神社ができたことは、偶然とは考えにくいでしょう。そこには、政治的な意図が見え隠れします。
(おそらく)神道以前から独自の山岳信仰の対象となっていた副川岳(神宮寺岳)に朝廷が神社を配置することで、その土地古来の信仰を神道にすり替える意図があったのではないかと言われています。大宝律令と時期を同じくして神社が建てられたということは、この時期、まだ秋田は朝廷の影響の少ないところにあったはずです。もちろん地理的に遠いことにも由来するでしょうが、それよりも注目すべきは「蝦夷」の存在です。
「蝦夷」が討伐されたのは、坂乃上田村麻呂の時代でした。坂乃上田村麻呂が征夷大将軍に任ぜられ、蝦夷を討伐したのが800年ごろです。つまり、「大宝律令」が施行された時期には、まだ蝦夷は東北で勢力を保っていたことになります。副川神社と時を同じくして秋田県内に建立された式内社は、いずれも県南部に位置します。したがって、このあたりが朝廷の(蝦夷に対する)前線付近だったと推測できるのではないでしょうか。
 横手盆地が稲作地として非常に優れていたことにも注目すべきでしょう。秋田県を含む北東北は全国的にも稲作の普及が遅れた地域ではありますが、その後横手盆地は安定的に米がとれた、と聞きます。いまだ謎多き遺跡・払田柵も横手盆地の真ん中に位置しており、秋田の式内3社もこの横手盆地を囲むように位置しています。このあたり、神宮寺のルーツを探る上で大きなターニングポイントになるのではないかと思います。」
http://yakimoto.me/note/history_of_jinguji_my_hometown/

2018年6月14日木曜日

1335「十字3」2018,6,14

 この青龍大権現には天命塾で木内鶴彦さんと2017年12月2日に訪れています。その時の様子は当ブログの以下をご覧下さい。
1162「出羽1」2017,12,23
http://tenmei999.blogspot.com/2017/12/116220171223.html
1163「出羽2」2017,12,24
http://tenmei999.blogspot.com/2017/12/116320171224.html
 この時は農道が雪に覆われていて車が入れずに徒歩で800m程歩いて辿り着きましたが今回は車で楽々です。
 鳥居を過ぎ中に入ると明神様の社の後ろに巨石が異様な雰囲気で鎮座しています。地底が湧きあがり形をなした様な異形です。頂上には角のような飛び出しがあり、突き出た突起は鼻の様にも見えます。北側には小川が流れ、水が溜まり湿地のようにじめじめしています。中山さんは興味深そうに何か探索している様子です。何故に平坦な所にこの巨石が出現したのか不思議です。
 一通り見学を終えて、社の脇で岩に向かってあわ歌を響かせました。なんとも重く、私の声も伸びが無く途切れそうになります。その時のお言葉です。

「あめ降り注ぐこの地にありて、
 この謂われ、大きを鎮め来たりて、ありがたきなり。
 新たへ参る是よりは、出でまして、ここ開き、皆々を導き行かれませ。
 ふむうるう ふむうるう すんたり らりら あーー 」10:48


 ここの巨石の謂われが大きな地殻の動きを鎮めてきたのでしょうか。謂れがキーのようですが、果たしてその謂れとは何なのかです。ここは地球の中心に繋がる重要なポイントなのかもしれません。中心に繋がるポイントが日本列島に何箇所かある様ですが、それは有史以前に辿る日本列島が出来るくらい古い時代のことかも知れません。
 そのことを話している中に中山さんから「東日流外三郡誌」のことが出てきました。先にこの青龍大権現を紹介した文章の中で途中省略した箇所は「東日流外三郡誌」に関わる所でした。しかしこの資料は当日、中山さんに配布していませんでした。
 これまで何故か中山さんのお言葉にこの「東日流外三郡誌」が何度か登場している様です。そのひとつは、私は参加していませんが今年の3月のペルーとボリビアに行かれた時に書かれた以下のお言葉にあります。
 詳しくは「光と響きとあい」のブログ2018、3,28の「ペルー&ボリビア巡拝の旅 39リマへ」の中にあります。
 https://ameblo.jp/aifukaki/entry-12363973286.html

 現在は「東日流外三郡誌」は偽書扱いとなっていますが「東日流外三郡誌」に記載されてあるものが全て嘘とは言えません。この言葉を受けて、なにか参考になるかも知れないと、中山さんに同行しているOさんが入手出来る原本をあたったようです。しかし未だ不明のようです。

 以下が省略した箇所です。 この中にお言葉にある謂れは伺えません。
「私は再度、この文章の出典を求めた。送られてきたのは、案の如く『田沢湖町三十周年記念事業 田沢湖町史資料編 第九集』に収録された『丑寅日本記』からの抜粋コピーである。『田沢湖町史資料編 第九集』は、和田家文書の中から田沢湖町に関係する部分を抜粋し、1992年に発行された公史である。
 田沢湖町と和田家には、疑惑にゆれた因縁浅からぬ過去がある。
 『田沢湖町史資料編』が発行された同じ年、生保内地区にある四柱(ししゃ)神社のご神体が、青森県五所川原市の石塔山荒覇吐(せきとうさんあらはばき)神社から、930年ぶりに里帰りするというご神体遷座式が、町をあげての一大イベントとして盛大に執り行われた。『外三郡誌』の真贋論争が火を噴く2カ月前のことである。
 遷座式の指揮を執ったのが、『外三郡誌』の発見者である和田喜八郎(1999年没)であり、ご神体里帰りの根拠となった文書が、この『丑寅日本記』である。
 ご神体について、和田喜八郎は、時価にして2~3億円はする貴重な遺物であると強調したが、里帰りした青銅製仏像のご神体は、中国に行けば、どこでも買える土産物レベルの代物であったという。
 『東日流外三郡誌』は、戦後まもない昭和22年(1947)、津軽地方の和田喜八郎宅の天井裏から“発見”されたといわれる古文書で、1975年に青森県北津軽郡市浦村(現・五所川原市)の公史である『市浦村史資料編』に掲載されて世に出たものである。公的機関からの出版物として信頼を得、おりからの超古代史ブームにのって反響を呼び、大論争を巻き起こすこととなるが、現在では、偽書説は確実視されている。
 『田沢湖町史資料編』に掲載された和田家文書は、『市浦村史資料編』と同じ轍を踏むものであり、町史に収録された信頼から、四柱神社のご神体里帰り騒動に発展する。
 ご神体騒動の詳細は、東奥日報社・斎藤光政著の『偽書「東日流外三郡誌」事件』(新人物文庫)に記されている。興味のある方はこちらを参照していただきたい。」

2018年6月13日水曜日

1334「十字2」2018,6,13

 翌日2日から3日にかけて陸奥・毘沙門・妙見を巡る旅のno3です。今回はこれまでの2回の巡りを受けて、秋田県から岩手県中央部の東西の横のラインを成して、前回の東北の青森県から岩手県への縦のラインと岩手県の中央部で十字クロスする予定です。
 その事はこちらの意図を踏まえてなのか、前回の巡りの最後、4月8日の達谷窟毘沙門堂で頂いたお言葉にもあります。
 「大いなる日暮れに向かうこの世にありて、
  ひたすら響き持ちて、この北の地に十字を結びて、
  遥かへと発するは大いなる力なり。
  皆々様、その身の中心しっかり据えて、
  是よりの時を進み、乗り越え、新しき嬉しきへ。」

 このお言葉の内容を踏まえての今回です。各自は「その身の中心しっかり据えて、是よりの時を進み、乗り越え、新しき嬉しきへ。」がテーマです。
 そして今回の巡りのほとんどの場所が中山さんには初めての場所ですので、果たして如何なるか楽しみです。
 2日は快晴に恵まれ素晴らしい朝です。仙台駅に7時半集合して総勢9名が999の車2台に分乗して出発です。

 最初の目的地は秋田県仙北市田沢湖生保内神石にある「青龍大権現」です。東北自動車道を北上し盛岡から田沢湖方面に国道46号線を西に進みます。国道341号線に入り北上して、小先達の交差点を西へ曲がると、直ぐに「山のはちみつ屋」さんのお店があります。その先の直ぐ右手に北へ進む直線の農道があり、はるか向こうにある森にぶつかります。
 森を左に曲がり行き止まりです。車を降りてその森の中に更に進むと、杉木立の中、左手に朽ち掛けた鳥居と巨石が鎮座しています。これが青龍大権現です。案内板も無く詳細不明です。ここの地名が神石ですので、この巨岩を神石と古から崇めていたのでしょう。




 この青龍大権現に付いて詳しく記されたものを見つけましたので、その一部抜粋して紹介します。
「生保内と書いて「おぼない」と読む。アイヌ語で「深い川」を意味する。地名の由来に、前九年の役の時、源義家が仙岩峠を越えて東方を眺めると立派な里があるので、「こんなところがあるとは覚えていなかった」と称賛したことから「おぼない」の名がついた。というダジャレ説もある。
 林立する杉木立のなかに人の気配はまったくない。丸材で造られた神明鳥居の奥に木造の祠があり、その背後に、高さ約8mほどの龍の頭の形をした岩塊が、背後の山裾からこちらに向かって突き出している。リアルなその形状は、地名となった石神の名にふさわしく、大地の根底からわきあがる不思議なパワーを感じさせる。
 祠の左手後方に、注連縄の巻かれた立石とそれを取り巻く石組みがあり、そのかたわらに「青龍大権現 辰子姫供養」と書かれた板塔婆が置かれている。これが、あの辰子姫の墓だろうか。
山と里との「境界」で、悪霊どもに睨みをきかせる龍頭の岩塊「青龍大権現」

墓所のような石組。「辰子姫供養」と書かれた板塔婆がかたわらに置かれている

 過日、青龍大権現と辰子姫のかかわりを市の田沢湖観光情報センターに問い合わせてみた。送られてきた資料に「“丑寅日本記”という昔の文書に、辰子姫が願をかけるために、このお宮にお参りしたとも書かれている歴史のある所である。」と紹介されている。
 どうも雲行きが怪しい……。『丑寅日本記』は、『東日流外三郡誌(つがるそとさんぐんし)』で一大真贋論争を巻き起こした和田家文書のひとつである。
(途中省略)
 話を青龍大権現と辰子姫の関わりに戻す。
 生保内には、天慶の乱で奥州に落ち延びた平将門の娘・滝夜又姫が、この地に住みつき村の祖先になったという伝説が残されている。この滝夜叉姫が『丑寅日本記』に組み込まれている。滝夜叉姫は、平将門と阿倍國東の次女・辰子との間に生まれた娘であり、幼いときには楓姫と呼ばれていたとある。青龍大権現と関わる部分を以下に引用する。

 「~ 一族の者奥州日之本将軍阿倍氏の所領に遁走して救はる。中に将門の正室辰子、遺姫なる楓、成して滝夜叉姫母子は、仙北生保内邑に落着して忍住せり。時に、楓病弱にて、母辰子は青龍大権現の鎮む生保内湖の湖宮に三七二十一日の祈願をせしに、湖神なる青龍大権現の告を夢うつつに聞くも、楓姫を病に救ふは、母辰子を神のもとに仕はしむ、入水を告げて消えり。依て辰子は浮虫と曰ふ乳母に、楓姫のゆく末を頼みて生保内湖に入水せり。~」

 この『丑寅日本記』の伝承から、青龍大権現の辰子姫墓所説が生まれたものなのか明らかではないが、道を尋ねた折の「誰も信じちゃいないけど」という中年男性のツッコミも、ご神体里帰り騒動の記憶に根ざすものではなかったかと、今になって思われる。
 田沢湖町も偽書説は認め、遺憾の意を表したが、『田沢湖町史資料編』の発行から、すでに21年が過ぎ、偽書騒動はすでに風化したものと思われる。
 私の照会に対する回答が、『丑寅日本記』に依拠するものであったことには、丁寧な対応をしてもらっただけに複雑な思いがある。たわいのない伝承と思われるかもしれないが、その土地に残る伝承は大切に扱いたい。」
http://home.s01.itscom.net/sahara/stone/s_tohoku/aki_seiryu/seiryu.htm

2018年6月12日火曜日

1333「十字1」2018,6,12

 6月1日は中山博さんのあわ歌会でした。仙台で中山さんにお越し頂き、初めてあわ歌を頂いたのが平成20年6月25日でした。ですから中山さんとご縁を頂いてもう直ぐ12年目になります。
 最初に頂いた12年前のお言葉を読み返してみました。
「大事な事をお伝えいたす。
 この地にありしは古き霊なり。
 篩いて篩いて多くが新しきと成りたり。
 これより起こるこの地の変化に、古くは多くの芥を受ける。
 新しきと成ること早きに分かりて頂きたし。
 この事を告げる御役をお願い申す。」 20年6月25日

 この時、私に頂いた事は、「大きな変化が起きる事を分かりこの事を告げ伝えることを役割にお願いする」とありました。そしてその後、平成20年に頂いた3回のお言葉は以下です。
「この地、東の日高見となりて、これより大きなる力持たれまする。
 皆々共々、新しき嬉しき宮となりて進みゆかれますよう共にお願い申しまする。
 我ら一同力となりましょうぞ。」 20年8月2日

「生まれ出でるは大きな力ぞ。
 これより日出ずる地の大艱難に向かいて、大きな力なしませ。
 この日高見中心に繋がりて、その地を新しきへ導かれたし。
 これより力与えます。」 20年9月27日

「思いかねたる大きなる身は、これよりこの地の北へと降りて開くなり。
 その六つの地は大きな役目ぞ。共に開きて下されよ。
 行く手は大きな輝きに満ちるなり。」 20年11月15日

言葉を繋げて見ると以下のようです。
「この地は東の日高見となり、これより大きな力を持ちます。皆々共々、新しき嬉しき宮となり、進みゆかれますよう共にお願い申します。我ら一同力となりましょう。
 生まれ出でる大きな力は、これより日出ずる地の大艱難に向かいて大きな力となします。
 この日高見中心に繋がり、その地を新しきへ導いてください。これよりその力与えます。
 思いかねた大きな身は、これよりこの地の北へと降りて開きます。その六つの地は大きな役目で、共に開いて下さい。その行く手は大きな輝きに満ちています。」

 11年が過ぎて、思い返すと将にこの言葉の様にあると思えます。果たして、行く手の大きな輝きに満ちた世界へ到達できるのか、いよいよの感じです。
 
 あわ歌会場には15時前に到着しましたが、今回の中山さんの響きは又変わっていました。それはどうやら今日、6月1日からの変化の様で、中山さんもまだ不慣れのようでかなりのエネルギーを消耗しておられる感じです。
 私の拝受の番です。中山さんの正面に座り、あわ歌の響きを頂きました。強い響き、振動が身体の隅々まで行き渡る感じで思考、己が消えて行き、全てがひとつの状態に高まって行きます。今までに無い内部での共鳴共振の増幅が暫く続きます。その後に頂いたお言葉です

「これより始める新たへと向かう道、進み行くはこの響きなり。
 生み出だされる。
 それぞれの深きに沈みた多くを出だして、ここに現し、大いなる生み出だしなり。
 よくよく、見定められて進み、行かれませ。」



 T,Sさんが頂いたお言葉です。
「ゆるやかなるなり。
 開き行く行くは驚きのこと。
 その中にあり、下されたるは皆々のもの。
 悠々たるを持ち行きて、果たすは是よりその身の真なり。」

 全てが煮詰まって来ている感じがします。クライマックスが近いのでしょうか。あわ歌は対する個々の存在に応じて明らかにその響き、振動が違います。あわ歌会の後の唱和会は中山さんのあわ歌に合わせる感じで歌いますが、皆さんと一緒に歌う時、各自が個々に歌う時と変え、自分の響きを発する事が求められているようです。その時のお言葉です。

「尽きせぬ思いとなりて、この地にあるなり。
 響きを伝え、宇宙と一つにならんと致す。
 是より大きく進む事となり、この響きも併せて進む。
 皆々様方、多くの事を見る時と成りた。
 揺らがず、進み行かれませ。」