2019年10月15日火曜日

1826「福島巨石探訪13」2019.10.15


 次の目的地は田村市の明石神社です。田村市と言うだけあり坂上田村麻呂に所縁の地です。田村市に田村麻呂に関する以下の記載がありました。

「正史にみる坂上田村麻呂
 坂上田村麻呂(さかのうえのたむらまろ)は、今から1200年ほど前の平安時代初期の武将で、征夷大将軍として蝦夷【えみし】(現在の東北地方)を討伐した人物です。
 奈良から平安時代にかけて、朝廷は、敵対(あるいは反抗)する蝦夷に対して度々東征していました。坂上田村麻呂は最初は大伴弟麻呂の副将の一人として東征して功を上げ、後に征夷大将軍として蝦夷討伐を成功させます。
 晩年は、参議(現在の内閣大臣に相当)・中納言・大納言と出世し、主に政治の中心で活躍しましたが、病によりその生涯を終えました。享年54歳。官位は大納言正三位兼右近衛大将。死後従二位を贈られました。時の天皇は彼の死を悼み、一日喪に服したといいます。

田村市における坂上田村麻呂伝説
田村市内に残る坂上田村麻呂の伝承は、大滝根山を本拠としていた賊(あるいは鬼)の首領である大多鬼丸を討つための戦いに関するものが非常に多く、陣を張ったところ、戦勝祈願したところ、進軍中でのものごと、戦勝報告とそのお礼として祀った神社に関することなどが多いのが特徴です。
 そのため、田村市内の地名の由来の多くが田村麻呂伝説に結び付けられています。そして、田村市内に所在する神社仏閣の多くが田村麻呂の建立・奉祀によるものとされています。
 これらの伝承について代表的なものをいくつか抜粋いたしましたので、別表をご覧ください。
 田村市に残る坂上田村麻呂の伝承の多くは、田村麻呂が正義で、田村麻呂に退治された大多鬼丸は賊(あるいは鬼)の首領であるとして語られています。しかし、地域によっては「大多鬼丸は賊(あるいは鬼)ではなかった!」とする伝承も存在します。大多鬼丸は実は地元の豪族(指導者)で、民を守るために朝廷の支配に立ち向かいましたが、朝廷に敗れたために賊(あるいは鬼)にされてしまったとする伝承です。
 最後に、大多鬼丸を悪とした伝承と、大多鬼丸を英雄とした伝承の両方を、短くかいつまんで以下に紹介します。

坂上田村麻呂の大多鬼丸退治
 昔むかし、陸奥国霧島山(現在の大滝根山)周辺で大多鬼丸を首領とする賊が悪逆非道を繰り返していました。時の朝廷は、この賊を征伐するため、坂上田村麻呂を大将とした軍を田村の地に送りました。田村麻呂の軍は各地で戦勝祈願しつつ進軍し、ついに大多鬼丸の軍と激突しました。最初は苦戦していた田村麻呂ですが、神託や白鳥の導きにより、ついに大多鬼丸を洞穴(達谷窟)に追い込んで自決させました。首領を失った大多鬼丸の軍は降伏し、この地の戦いは終結しました。田村麻呂は大多鬼丸の武勇を惜しみ、その首をあぶくま一円が見渡せる仙台平に丁重に葬りました。

大多鬼丸
 昔むかし、陸奥国霧島山(現在の大滝根山)の白銀城に大多鬼丸という豪族が住み、七里ヶ沢(現在の滝根町周辺)を平和に治めていました。
 ある日、大多鬼丸の元に朝廷から、「この地と人を朝廷に差し出せ」という要求がありましたが、大多鬼丸はそれを拒否しました。怒った朝廷は、大多鬼丸を討伐するため、この地に坂上田村麻呂を大将とした大軍を送りました。こうして坂上田村麻呂と大多鬼丸との戦いが始まりました。
 大多鬼丸や部下の鬼五郎は勇猛に戦い、田村麻呂軍相手に善戦しましたが、兵で勝る田村麻呂に次第に追い詰められ、達谷窟で自決して果てました。かくして、大多鬼丸は悪鬼として後世に名を残すことになりました。」

坂上田村麻呂伝説を求めて!!(田村市役所)

「田村市」の名称の由来ともなった坂上田村麻呂の東征に伴って、当市に残されている田村麻呂に関する伝説・伝承の地を巡る。伝説上の田村麻呂は蝦夷を征伐した英雄であり、当市に残る伝説も英雄として捉えた視点にもとづくものが多い。
  ア・大鏑矢神社、イ・明石神社、ウ・堂山王子神社についてはいずれも、賊(鬼)との戦いを前に戦勝を祈願するという共通項を持ち、これらの伝承がもとになってそれぞれの神社が武神の神・馬の神としての信仰を後世得ることになる。カ・お伊勢様の鐙摺石桜、キ・五十人山の泉と石についても英雄視する側面からの要素が強い。
 しかし、エ・鬼五郎・幡五郎については、田村麻呂に立ち向かった地元の英雄としての伝説があり、田村麻呂を一方的な英雄=「善」として捉えることはしていない。また、オ・達谷の窟で討たれた賊(鬼)についても、賊=「悪」としての側面ばかりではない伝承もある。

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