2015年12月17日木曜日

536「石巻3」2015,12,16

 ここで原田氏の著書等から石巻山に係わる古代ピラミッドについて少し整理してみます。
「また、日本列島中部の伊勢、渥美半島は連結し、伊勢湾、三河湾は大きな湖をなしていた。伊勢~伊良湖の沖合まで陸地を形成し、旧石器人が想像外の高度な文明を築いていたかも知れない。
 なぜなら、伊勢の沖合に神島があり、その周辺の海底には竜宮があったという伝承がある。伊勢の海女が、海にもぐるのも、古い都をしたって還る深層心理が働いているのかもしれないのである。
 二見ケ浦の夫婦岩もその古代の都を想って注連縄をかけ、拝まれているのかも知れない。伊勢の沖には、アラハバキ神を祭る島があったり、紀州の沖には常世の国があったと云われている。紀州の牟屡郡、三河の牟呂はつながり、ムーの国を形成していたと考えられる
 日本のピラミッド文明はそんな所に生まれたのであろう。伊良湖水道にある神島は一つのピラミッドであったろう。また、少し北の三河のあちこちの山も神の山である。石巻山、砥神山、蔵王山、本宮山などは神山の名残を遺している。頂上に磐座を持ち太陽信仰がある。不思議にも、伊勢、三河、そして、日本列島全体と沖縄にも原始的太陽信仰があるようなのだ。
 鳥居礼によれば、ピラミッドの謎は「高天原の原理」によって解ける、という。                  
「修験道の「神奈備信仰」は山を神の霊(ひ)のこもれるものとする古代民族の信仰で、その山には神の霊をこめるための神離(ひもろぎ)を立て、磐堺(いわさか)を祭るのがつねとされる。また、その神の霊を祖先の霊とするのが、古い形であるとも考えられている。「神奈備山」とは、天界「高天の原」に帰るための地上の「高天の腹」なのである。山は地上の腹であり、子宮ともいえる。
 このような「高天の腹」としての「神奈備信仰」や、天界との交流地としての「高天の原」の超古代伝承が、エジプトにも伝えられ、そこに美しい山がなかったために、人工的にピラミッドを建設したのである。
 酒井勝軍がピラミッドは「天の御柱」の「八尋の殿」であるとしている点も「秀真伝」の思想とまったく一致している。」                        

「この石巻山には竜が3周り半巻き付いていたという云われがあるし、蛇穴があり、蛇信仰の原点である大巳貴が主神として祀られている。蛇神=龍神信仰がまさに行われていた縄文遺跡であった。
 一方、「太陽信仰の祀り場」としての機能はどうであったかと言うと、これは、山頂を中心として、周囲数kmにわたり、3重4重に取り巻く40社を越える神社群がある。その配置は、東西南北、および45度回転した8方向に整然と配置されており、神社のあるものには、遥拝石を有し、その創立時期も古代に遡り、時期不詳という社が多い。
 配置された神社の幾何学的位置関係はとくに、内周の神社において整然としている。3角形状組み合わせからなり、神社と山頂を結ぶ線は、夏至、冬至、春秋分の日の出、日没の位置と関係があるようである。不思議なことにこの神社配置は正確に東西南北を指すものではなく、5から7度時計と逆向きに捻れているのである。鈴木旭氏の論ずるクロマンタにおいてもこのような捻れが5度程度あり、その原因は、地球の歳差運動に基づく南北軸のズレが表現されているものであるという。そうであれば、石巻山の周囲の遥拝所が基本配置された時期は、クロマンタより更に古く、約5000年前の前期縄文時代であることになる。 石巻山山麓の神郷や東南の牛川町には、縄文時代の土器片や鏃が出土しており、縄文人が集団居住していたことをしめす痕跡は多い。
 つまり、石巻山は古代日本の縄文人の精神的基盤である神の山であり、それは環太平洋ピラミッド文化の一環に組み込まれたまさにピラミッドそのものであったのである。
 なお、石巻神社の里社は古の美和郷(神郷)にあり、孝安天皇時代の設立と伝えられている。しかし神社設置の場所は、縄文時代の神山遥拝所の石柱や磐座が元になり、祠を建て神社に成長していったものと思われる。石巻山の周辺にはこの様な、神社群が40社以上あった。
 即ち、石巻神社の祭神として、天御中主尊と言う天地の中心となる神が、古代より、イザナギ・イザナミ尊の勧請によって祀られていたというのである。天地の中心となる天御中主尊が、日本の國をつくったイザナギ・イザナミ尊によって祀られているとはいかにも大変なことであって、これによっても、石巻山が須彌山と呼ばれる価値のある神山であったと言えよう。」




 さて、今回は東三河の石巻山を中心に先に示した神奈備山を巡り、アラハバキとの関連、そして除福がこの東三河に到着し定住していたという除福伝説所縁の神社などを巡りました。以下、簡単に紹介していきます。

 御津山は豊川市御津町にある標高94mの小さな山ですが、お椀を伏せたようなほぼ三角形で山頂が平らな山です。頂上には展望所があり夜景の綺麗な名所のようです。





 麓には御津神社があります。式内社・御津神社に比定されている古社で、三河国神名帳に、「正三位御津大明神」と記されている神社です。紹介は以下です。
「御津神社の祭神は大国主命で、創建年月は西暦以前にさかのぼるといわれ、あまりにも古く記録がないため不詳です。  
 御津町の歴史も古く、8代天皇の孝元天皇(西暦前200年)が当国の行幸の時に、御船を此の津に寄せられたことから、当地を御津湊とされたことが惣国風土記に記されています。その時、天皇は既に此の地にあらせられる神社に対し、御津神社の名を賜ったとされています。
 境内にそびえる大楠は神社のシンボルで、樹齢1,000年を超える町内最高齢の樹木です。」鳥居をくぐり、境内に入ると、右手に枯れた池のようなものがあり、中央に、船形に積んだ石がある。その上に、龍神石雌龍神と呼ばれる石が立っています。