2015年12月23日水曜日

542「石巻9」2015,12,23

 次の目的地、豊川市の菟足(うたり)神社はその名の通りウサギの神紋の珍しい神社です。
 祭神は菟上足尼命(うなかみのすくねのみこと)です。除福伝説とも絡んでいて興味深い神社です。以下、主な表記を紹介します。
「祭神の菟上足尼命は、孝元天皇の末裔、葛城襲津彦命(かつらぎそつひこのみこと)四世の玄孫にあたり、雄略天皇の治世に穂の国(現在の東三河)国造に任ぜられたという。葛城襲津彦命は、仁徳天皇の皇后磐之姫媛命の父にあたり、大和国葛城の豪族として大きな権力を持っていたとされる。菟上足尼命は、没後、顕著な殖産、治民の功によって、三河国平井の柏木浜に奉斎され、天武天皇の治世、白鳳15年(686年)4月11日に、秦石勝(はたのいしかつ)により、現在地に遷座されたという。」


「菟足神社略記によれば菟上足尼命は籰繰(わくぐり)神社、犬頭(けんとう)神社を創建し養蚕、機織りを奨励、犬頭糸や赤引きの糸を有名にした功績から、大神として仰がれるようなったとされます。菟上足尼命は犬頭神社の社伝によると丹波出身とされるのですが、丹波国桑田郡は秦氏が桑を植え養蚕に従事したことから秦氏との関係が出てくるので、東三河における養蚕と機織りに秦氏系氏族の関与が推定されます。」

「『今昔物語』には菟足神社の春祭(風祭、生贄祭)の人身御供の話として「菟足(うたり)神社の大祭の日にこの橋を最初に渡る若い女を生け贄にする風習があった。男が生け贄を狩りに行くと不運にも自分の娘が来たではないか。男は,「自分の子だが」生け贄にした。」と書かれている。この残忍な様を見た国司・大江定基(和泉式部の父)は出家して唐に留学し寂照法師となった。この人身御供振りはモレク信仰ではないのか?」

 菟足神社には貝塚があり縄文の頃からの出土品があります
「この貝塚は、神社境内および隣接する川出氏宅の敷地一帯に広がる。(略)出土遺物はほとんとが縄文時代晩期の土器であるが、弥生土器や古墳時代後期の須恵器も見られる。 しかし、最も注目されるのは、縄文時代早期(今から一万年から六千年前)の押型文土器と呼ばれる土器の破片である。この種の土器は豊川右岸下流域では本貝塚でしか発見されていない。人骨は乎井稲荷山貝塚のように大量に出土していないが、川出氏の採集品の中には抜歯されたものがあった。貝殻を形成している貝塚は、ほとんどがハマグリとシジミガイであり、場所によっては厚さ一メートル近くも推積している所もあり、町内の貝塚の中で最も保存状況が良い。当時は目の前を流れる川(現在の走川)の水運を利用して浜へ出て貝を採集していたのであろうか。また、遺跡の所在する周辺は南向きの台地で、斜面には天然の湧き水もあり、生活環境としては絶好の場所である。小坂井町教育委員会」


 神社の表記にあった除福伝説の内容は以下です。
「今から二千二百年ほど前、戦国の中国を銃一した秦の始皇帝は、徐福から東方海上に蓬莱など三つの神山があり、そこには不老不死の霊薬があるということを聞いた。
 そこで、始皇帝はその霊薬を求めて来るよう徐福に命じ、三千人の童男童女と百工(多くの技術者)を連れ、蓬莱の島に向かわせた。 しかし、出発してからのその後の徐福一行の動向は分かっていない。ところが、わが国には徐福一行の渡来地といわれている所が二十余箇所もある。しかも、わが小坂井町が徐福渡来地の一箇所として挙げられているのである。
 それは次のような菟足神社に係わることからいわれるようになったと考えられている。
1.熊野に渡来した徐福一行は、この地方にも移り住み、その子孫が秦氏を名乗っている。
 ・豊橋市白色町には、「秦氏の先祖は、中国から熊野へ渡来し、熊野からこの地方に来た」  
との言い伝えがある。
 ・牛窪記 〔元縁10年(1697)頃成立〕には、「崇神天皇御宇二紀州手間戸之湊ヨリ徐氏古座侍郎之舟、此国湊六本松ト云浜二来ル。(中略)徐福ガ孫古座侍郎三州二移リ采ル故二、本宮山下秦氏者多シ…」とある。
2.菟足神社の創設者は、「秦氏」ともいわれている。
菟足神社県社昇格記急碑(大正11年12月22日昇格)に、「菟足神社は延喜式内の旧社にして祭神菟上足尼命は(中略)雄略天皇の御世、穂の国造に任けられ給ひて治民の功多かりしかば平井なる柏木浜に宮造して斎ひまつりしを天武の白鳳15年4月11日神の御教のまにまに秦石勝をして今の処に移し祀らしめ給ひしなり」と記されている。
3.菟足神社には、昔から中国的な生贄神事が行われている。
古来菟足神社の神事には、猪の生贄を供えていた。三河国の国司大江定基が、その生贄の残忍なありさまを見て出家し、唐に留学し寂照法師となったことが、「今昔物語」(平安後期)に書かれている。生贄神事には人身御供の伝説もあるが、現在では雀12羽を供えている。
 以上のほか、三河地方が古来から熊野地方とは海路による往来が行われ、熊野信仰の修験者により熊野に伝わる徐福伝承が伝えられた。また、小坂井町が交通の要地で、東西を往来する人達の中かからも徐福の故事が伝えられたとも考えられる。小坂井町教育委員会」

 前田豊氏は以下のように纏めています。
「宝飯郡小坂井の菟足神社には、蓬莱の3神山に不老長寿の霊薬を求めて、秦の始皇帝に遣わされた、徐福の来所の伝承がある。
 菟足神社の神官・川出氏の出自は、秦氏と言われ、徐福の後裔である可能性がある。秦氏のハタは、イエフダーつまりユダヤに起源を求めることが出来るとの説が有力であり、秦河勝もユダヤ系といわれる。
 菟足神社の社家には、モーゼの十戒石板を入れて運んだといわれる唐櫃(アーク)のようなものが保管されているという。そういえば、菟足神社の「風祭」をみていると、櫃を担いで神社に持ち込む儀式があり、聖書に述べられた「アーク」の搬送法を思い起こさせる。
 実は小坂井町誌によれば、菟足神社の祭りで、大般若経を転読するのは「宇佐大明神の前」と書かれている。宇佐大明神とはどのような神であろうか。「白兎を神紋とする」菟足神社の主祭神は「ウサ」つまり、聖書に書かれた「アーク」を牛車に乗せて運ぼうとして、神に打たれた「ウザ」ではなかろうか。
 ウザを奉斎するユダヤ10部族の後裔が、日本に来ていた。それが、宇佐津日子、宇佐津比売となって、神武天皇を迎えた伝承を形成した可能性がある。
 菟足神社の近くには、菱木野神社があり、日色野の地には神に供える「ハンサイ」(動物犠牲)用の獣を飼育していたと伝える地がある。最近の「風祭」で用いられる犠牲動物は、雀12羽であり、ユダヤ12部族の供物を想像させる。」

 除福伝説満載の菟足神社は国道沿いにありましたが参拝者はいなく閑散としていました。その中でウサギさんが印象的でした。