2018年6月30日土曜日

1351「十字19」2018,6,30

 続いて6月1日、2日、3日の「実際にこうやってね。そうしないと新しく成らないよ。」の内容のお言葉です。

尽きせぬ思いとなりて、この地にあるなり。響きを伝え、宇宙と一つにならんと致す。
是より大きく進む事となり、この響きも併せて進む。
皆々様方、多くの事を見る時と成りた。揺らがず、進み行かれませ。

定めたるはこの身なれば、新たなる響きを発せば、ひ、うる、うる、うる。
明日の光は新しきぞよ。揺らぎて参るぞ。
この地は全てが揺らぐ。その時、この身が発する音はあ~。揺らぎは赤き山にあり。

あめ降り注ぐこの地にありて、この謂われ、大きを鎮め来たりて、ありがたきなり。
新たへ参る是よりは、出でまして、ここ開き、皆々を導き、行かれませ。

助くるなり。今より開くはるかなるへの道、響きて伝える。
この光、この時にしっかり受け取りてくだされ。大いなるものなり。
千載一遇、今日の日、この時ぞ。両手を 差し出し、共々ひとつとなられませ。
光の子、大いに喜び、ここへと参り来た。嬉しきなり。

大事になさりて、この光を。皆々様のその身に入れて、大いなるその身の全てに伝えませ。
新たなるなり。この光は響きと共に是よりを現す。うたかたは流し行く。

北より参るを受け止めて、多くへ 配るこの地なり。
響きも光も、皆々ひとつ。生まれ出で来る新たなるを送りませ。

更なる進みへ、皆々共に参り行くは嬉しき事なり。
緩やかなる、たおやかに、悠々と進みて参りませ。
揺らがぬそれぞれ、ただただひとつなり。

大いなる身にお尋ね申す。是よりのこの地を如何に為さるや。
歌響き、大きなる嬉しきなり。元なるこの地は岩にあり。
岩響かせて、元なる地へ発して、受け取られませ。全てはひとつの大いなる身へ変え行く。
ありがたき。踏み行く道と心得たり。

思いておる事。この地は是より大きな地よりの力を、元なる響きにて発し行く。
そのすさまじきはこの地の元なり。大きく動きて、全ては変わる。
皆々様方、はるけきへの旅なり。
包まず申す。その事納めて、ただただの道貫くは如何に。
許されしは遥かなると、この地を自在に使う。その事を為し行かれませ。
あい分かりました。

降り来る響きにその身を合わせ、ひとつとなりて参り行けば、この地の振動より離れ行き、硬きを脱し、柔らかきと成り成って、自在に空間動き行く。
この歌、響かせ、大いなる身へと参りませ。

只今より、この北への道へ結び行きて、大いなる道繋ぐを始め行く。
光と陰、ひとつと成して道開けば、大いな新たと成すなり。
生まれ来るは、ささら、さらりろ、さんさらり。響き、中ぞ。

皆々様方、お分かりなされましたか。
大いなる響き、皆様へ降り来て、ひとつと成られ、生み出だす 新たなるを。
是までのこの地を変え行き、新しきとなります。
この思いをしっかり持ち行き、その身の新しき現してくだされ。是までは無しと致す。

あ~あ~あ~ 許されし事なり。
是よりの事ごと、見事に大いなる階段登る。
この身にありて、この身に無し。行きて、帰りて、広きへ羽ばたく。

2018年6月29日金曜日

1350「十字18」2018,6,29

 今年の3回にわたる妙見と毘沙門天に関わる巡りを終えて、6月3日のミーテイングでの中山さんからの以下のお言葉がありました。

「今回(6月1,2,3日)は、響き、光を具体的にこんなふうに進めて行くというメッセージだった。「実際に自分でどうするか」、を他で言った事が無いことをかなり本気に伝えられた。(途中省略)
 今年になってから急激にきつく言った。前回(4月6、7、8日)の巡りでは「大変な事を伝え」、今回は「こうやってね」、と伝え、「そうしないと新しく成らないよ。」と言う事。今回もメッセージの言葉を続けて読んでみて、「それでどうやるの」、となると思う。

 この言葉を受けて、前回4月、今回6月のお言葉を纏めてみました。お読みに成ってみてください。先ず4月6日、7日、8日の「大変な事をお伝え」のものです。

これより2日の間に、大きなる響き参り来る。
皆々様方、しっかり受けて、その身で天地結び行かれ、新しきへの扉開かれ。

第三次無限世界の始まりを告げる。
うたかた終了。捉われの民、多数は別次元。うたかた全ては無し。新たなるは無限。
さすらうでないぞ。捉われたるはそのままそこに居れ。

さすらい行くなよ。真っ直ぐ参られよ。多くの脇道必ず誘うぞ。
しっかり定めて付いて参れよ。益々激しく、厳しきと成るぞ。覚悟は良いか。
これからなり。今までの全て役に立たぬ。真の思いあるのみぞ。
この2日は皆の一大事。

来る日へ向かう皆々様には、その身の一切無しと成り、如何なる事にもただただ貫き、
揺るがぬ事なり。長きにわたりて申したり。心得たれば定めて進まれませ。
移り来るこの振動、生み出だす。

さらに申す。この地の動きは早きと成り行き、大いに動く。皆々様が変わり行きて、
この地の関わり変わり行き、大いなる安心の世界へ参ることとなる。急ぎて旅立つ時至る。

お~お~ たちどころに晴らすぞよ。この地に巣くう多くの諸々、ささ参れよ。

さて、これまで大いなる星と居たる。この地は変わり行き、この宇宙と2つの宇宙、
しっかり繋がり、互いを守り行く。ここ大きく変わりて参るはこの事なる。
皆々持ちておらるるこの振動の大いなる元へと帰り、一つと成すなり。
北の星には大いなる讃え送るなり。

お届け致したり。紅の遥かなる光、許されたるは真新しきなり。踏み行きて進まれませ。

自らのその身にある、尽きせぬ大いなるを是より間断なく伝え来る。
響き受けて、大いなる元へと繋ぎ、新しき身へと進まれませ。
ご用意、整いたれば、それぞれのその身の中より発し行きて、繋ぎて結ぶ、嬉しきなり。

来る8月8日には、振り来るあめ(天芽?)がそれぞれに参りて、一つと成し行くなり。
一人びとりが、ご自分の立ちたる場所を踏まえて、天地繋ぎて下されませ。

宮はそれぞれの内に構えられませ。元なる元の大いなるを現します。
その宮開きて、大いに発し行き、是よりの新しきを共に打ち立てましょうぞ。
大いなる嬉しきの宮なり。

届けたる元のイキなり。それこの地のものと為さりて、光りて、讃えて、
大きなる地へ参り、共に進み行かれませ。尽きせぬ大きなるこの事は嬉しき。

大いなる日暮れに向かうこの世にありて、ひたすら響き持ちて、
この北の地に十字を結びて、遥かへと発するは大いなる力なり。
皆々様、その身の中心しっかり据えて、是よりの時を進み、乗り越え、新しき嬉しきへ。

2018年6月28日木曜日

1349「十字17」2018,6,28

 仙台の天命舎に18時過ぎに到着しました。皆さんとこの2日を振り返りミーテイング、皆さんの感想と中山さんからのコメントを紹介します。
・I、Tさん
「新しい響きのあわ歌を何回も歌えて良かったです。最後の藤里毘沙門堂で、中山さんの前に並んで、響きを受けられて、歌っている途中でこのまま行っても良い感じになりました。」

中山さん
「私もそんな感じになったが、歌っている途中、自分が無くなり、何処を歌っているかが分からなくなる感じになる。」

・G,Mさん
「前回の巡りでは、中山さんのお言葉は直接的なメッセージでしたが、今回は祝福されているようで気持が良かったです。車中にSさんとIさんに課題を頂きましたが「日々淡々になる」をやってみたいと思います。」

・S、Hさん
「今回巡った所は自然が豊かで、気持が良かったです。初めてのところが沢山で楽しみでした。中山さんのあわ歌の響きが新しくなったことで、少しボ~とした感じです。」

・O、Tさん
「今回は眠くて車中でほとんど眠っていました。降って来る光に自分も合わせる様に、自分が出来る様にと思いました。瞬間的に出来てもそれが継続できたらと思います。8月8日に向けてやっていきたい。」

・O、Yさん
「あわ歌の響きが胸で響いていた感じで、今回は頭の方に上がらない感じがしました。自然の中で歌えて気持が良かったです。」

・K、Hさん
「中山さんと一緒の車に乗れて、その都度の事が聞けて良かったです。光や響きが分かったかと言うと、良く分からないです。しかし清清しい感じでした。あわ歌会で頂いたお言葉が気に成っていて、11月初旬のことどうしたら良いのかと思っています。それと8月8日に響かせる事を、自分の中でどうするかが課題だと思いました。」

・S、Uさん
「今回、中山さん、Oさん、大久保先生の行程企画のお陰で、多くの出合いを頂けたことに感謝です。自然の中で響きが凄かった。特に昨日の響き凄かったですが、今朝の早池峰神社の響きはとても嬉しかった。山神神社も含めてほぐれていく感じで豊かさが拡がりました。亀の子岩では統合出来た感じがして、今回も参加出来てありがたかったです。」

・中山博
「今回は、響き、光を具体的にこんなふうに進めて行くというメッセージだった。「実際に自分でどうするか」、を他で言った事が無いことをかなり本気に伝えられた。
 是までは「ただあわ歌を歌えば良い」だった。そのただただの意味を伝えていず、軽く捉えられていて、突っ込んでこれていない。
ただただで疑問が生まれ、無しの世界が目標に成って動いて行く段取りだったが、日本中歩いて伝えたがそうならなかった。無しに食いついて来ない。
 今年になってから急激にきつく言った。前回の巡りでは「大変な事を伝え」、今回は「こうやってね」、と伝え、「そうしないと新しく成らないよ。」と言う事。今回もメッセージの言葉を続けて読んでみて、「それでどうやるの」、となると思う。
 私の真似をしでないので良い。しかし伝える。私はうつけ、腑抜けの先に無しになる。お前が無しになる。でないとあわ歌の最後を歌えない。誰かを前にしている限り、理屈を言っても本物が出ない。
 宇宙、地球の進行と本物のあわ歌が出る時を合わせていて、全てを統べていると言うが、本当だとすると、そうならない。降りて来るものは私の近くの円筒形の範囲で、私に身体をくっつけていると感じるが、私と同じ事が出来る人が何人もいないと、皆にということは不可能だ。だから私が発してその中で、全体がその響きに成れる様に、と言う事のようだ。
 自分の身体も生命も預けることだが、誰もやらないでしょう。あわ歌を始めた事は、生命がけと言われていた。だから一緒に始めた人たちが皆離れて行った。今は地球上が酷い状態で、生贄ででも良くなれば良いという状況だ。
 ただただ歌える人になって欲しい。次回8月には自然の中で一体となると少し感じられる。私は元なる地へ言って8月8日、1日歌ってみるが、皆もその日にどうなるか検証して次へ進んで欲しい。
 納得出来なれれば止めたら良い。私も納得出来ないとそれ以上出来ない。皆さんも準備して心に留めてやって欲しい。」

 ストレートな結論です。各自に委ねられ、覚悟と行動を問われているようです。そのタイミング、変化は8月8日に全てはかかっているようです。その直前に仙台であわ歌会と巡りが行われます。ご縁の方は参加下さい。

第 57 回 あわの歌会 & あわ歌唱和の集いhttp://genkiup.net/awa/awa57.pdf
中山博氏と巡る 陸奥・自然謳歌の旅http://genkiup.net/awa/30.08.04.pdf


2018年6月27日水曜日

1348「十字16」2018,6,27

 巡りも最後になりました。目指すは奥州市江刺区藤里智福にある「藤里毘沙門堂」です。
 以下が藤里毘沙門堂の紹介ですが、抜粋して紹介します。

「江刺市東部の丘陵地帯にある。地図上では智福神社とも書かれていて、神仏混淆の寺と考えて良いだろう。本堂は方3間の寄棟造。
本尊の兜跋毘沙門天。鉈彫物で10~11世紀のものという。国重文。
 毘沙門天の見分け方だが、四天王(持国天、増長天、広目天、多聞天=毘沙門天)のなかでは一番見分けやすく、手に宝塔と戟(げき:槍みたいな武器)を持っているので他の四天王とはすぐに区別できる。そのうち、兜跋であれば地天の手のひらの上に立っているから両足は平行に開かれている。普通の毘沙門天ならば邪鬼を踏んでいるか、岩の上に立っている。また兜(といっても中国の西域の兜で、普通の帽子のようにみえる)をかぶっているのも兜跋の特徴とされ、普通の毘沙門天は何もかぶらずてっぺんで髪を結っているか冠を着けているだけだという。
 全身には鉈のあとが残っているのがよくわかる。これが鉈彫(なたぼり)という手法で、関東以北でしか見ることのできないものだ。いかにも東北の仏像という趣のある像だ。」

 宝物館にはもうひとつ普通の毘沙門天像もある。こちらは鉈彫ではない。
 兜跋との違いを見比べるのにもちょうどいい。(戟と宝塔は失われているが。)邪鬼を踏んでいるので片足をあげるようにして立っている。
 この像は県文だが、平安時代の像で兜跋像よりずっと優雅で洗練されている。これが藤原文化というやつか。手が欠けてなければ国重文になっていたかも。
 もっとも鉈彫の兜跋と並べるとインパクトは弱くなってしまう。


「東北には有名な毘沙門堂が三カ所ある。都の「はるか北方の守護」なる意味を込めている。南から江刺の藤里、北上立花、そして花巻成島。そして何れもが堂々たる毘沙門天の彫像を現在に至るまで残している。これらを南から順番に訪れてみたいと思う。
 藤里毘沙門堂の位置はわかりにくい。カーナビの指示通り目的地周辺に到着してもあたりにお堂らしきものは何も見えない。道路際にあ建てられた説明板にしたがって、草が生い茂った坂を登ると、収蔵庫ら式建物が見えてくる。あらかじめ、予約はしておいたが、再度電話して管理人の方に収蔵庫を開けていただいた。たったひとりの旅人に対してありがたいことである。
 まだ新しい建物の中には、数多くの仏像が並んでいる。その中にひときわ目立つ仏像が毘沙門天立像だ。2体ある。静かにすくっと立っている兜跋毘沙門天立像、もう一つ、躍動的な通常の毘沙門天像。なぜ2体あるのだろうか間近かで見る二つの毘沙門天像は、温かみを感じる。鉈彫りではあるが荒々しくはない。特に兜跋毘沙門天を支える地天女の御顔はすべての苦しみ、悩みを受け止めてくれるかのように温和である。もう一方の邪鬼を踏みつける毘沙門天は、端正でやさしい。人里離れたの腹の真ん中に、こんな立派な仏像が1000年という月日を超えて今に伝わる力の源をしみじみと思う。そしてしれを一人でこころゆくまで拝むことのありがたさが身にしみる。」
http://mori500.blog50.fc2.com/blog-entry-225.html






 お堂は林の中にありますが、立派な駐車場、トイレが整備されています。愛宕神社も祀られていますが鳥居の脇に、樹齢1200年の杉の巨木と同じく樹齢1100年のカヤの木の巨木が聳え立っています。お堂の左手奥にも杉の巨木が鎮座しています。丁度、太陽が西に傾きその光が木々の間を差し込んで来ています。その光に1列に並んであわ歌を響かせました。

 その時のお言葉です。
「あ~あ~あ~
 許されし事なり。
 是よりの事ごと、見事に大いなる階段登る。
 この身にありて、この身に無し。
 行きて、帰りて、広きへ羽ばたく。」16;31

 終わって中山さんは膝を押さえてしゃがむ感じです。強烈なエネルギーが注がれたようです。お陰様で目出度く全てを巡り終えて新たな響きを頂きました。安心して一路仙台へ向かいます。

2018年6月26日火曜日

1347「十字15」2018,6,26

 音石神社、音石山青石寺は奥州市江刺区広瀬字平にあります。
 その紹介です。
「正観音を安置し、通称青谷観音と称すが、明治の神仏分離に際し、少彦名命を祭神として音石神社と称す。江刺三十三観音巡礼、五番札所。
 安永風土記には、寛文12年(1672)暮打場屋敷・後藤市衛門開基、祭日9月18日、脇仏不動毘沙門・弘仁2年(811)共に慈覚大師の作、不作十三体ありて元来別の御堂にありしが廃壌し此処に安置、享保年中、獅山公御菩提普間品読経仰付けられ、お伺いの上、竹に雀の御紋幕張執行せし由、今尚堂内に古損納置く、奥羽両国三十三所中二十番目の札とある。
 北方約1粁に鳴石権現社があり、奥宮ともいわれる。この社地に、
 男石(長さ9尺5寸・横4尺6寸、平石で延文2年10月2日の切付け有り)
 女石(長さ6尺7寸・横4尺8寸、ひつみ有り)
 枕石(長さ7尺余り・横1尺5寸、男石女石の間に有り)
 この3つの石を小石を持って打つに、高く金鳴りの音するを以てこの地を音石鳴石という。
 藤原秀衡が詣で、園の石になさんと男石を引かせたが、1丁程して後は更に動かし得ず、頻りに女石枕石を慕う音して鳴る事止まず、不思議に思い捨て置きし処、何くより貞春という座頭来たりてこの石を軽々と元の地に引き戻したといい、故にこの村を軽石村と名付けたと伝わる。他に座頭石、獅子石の5つの名石あり。」
http://www.jinjacho.jp/ganshinsei/ousyuushi/456a.html

 駐車場がありません。県道の橋の手前に音石神社の鳥居があり路上駐車です。鳥居から右側の小川に沿う狭い参道を進みます。左手には岩壁が迫り出していて1人が通るのがやっとと言う箇所もあります。直ぐに社殿が正面にありますが境内は狭いです。私の足元を動くものがいます。蛇が小川の方に逃げるではありませんか。驚きですが誰も気づきません。




 中山さんが音石を探しますが見つかりません。それもそのはずです。紹介文にある様に「北方約1粁に鳴石権現社があり、奥宮ともいわれる。この社地にある。」のです。後で私もその事に気付いたのですが遅きに失しました。
 社殿前で輪になってあわ歌を響かせました。その時のお言葉です。

「あ~あ~ (拍手)
 皆々様方、お分かりなされましたか。
 大いなる響き、皆様へ降り来て、
 ひとつと成られ、生み出だす 新たなるを。
 是までのこの地を変え行き、新しきとなります。
 この思いをしっかり持ち行き、その身の新しき現してくだされ。
 是までは無しと致す。」15:41

 鳴石権現ですが音石権現社と言われているようで、以下の様に記されています。
「音石権現社は字七日市にあり、本地は阿弥陀如来で嘉祥年中(848~50)開基といわれる。境内に七ツの石あり、打つと金属音がでるので音石神社の称あり。
 男石を佐藤秀衡が館の庭石にしようと一丁ほど引き出し、その後どうしても動かなかった。しきりに女石、枕石を慕って鳴り止まず捨て置いた所、その後貞春という座頭が来て男石を軽々と元のところに引き戻したので、この地を軽石村と名付けた。男石は延文六年(1361)の銘あり。」
 何時か音石権現社を訪れて石の響きを聞いて見たいものです。

2018年6月25日月曜日

1346「十字14」2018,6,25

 次の目的地は亀の子岩です。先ほどの立花毘沙門堂から国道に出て南側に道を進むと右手に展勝地、そして川向こうに昼食を頂いたホテルが見えます。そこから直ぐに「北上市憩いの森」があります。
 そこは立花毘沙門堂の紹介文にあった国見山の麓から拡がる40ヘクタールの遊びのワンダーランドです。その山の中に巨石の亀の子岩があります。
 ここは今回の巡りの南北と東西のラインのクロスするポイントと定めた所です。その亀の子岩は展望台になっていて、そこから西に奥羽山脈の山並みを見て、眼下に南北に北上川、そこに西から90度に和賀川が合流するポイントを一望に見れるのです。

 亀の子岩の紹介です。
「北上市にある北上展勝地、その近くにいこいの森があります。 そこから10分~15分登ると、溶岩岩でできた展望台、亀の子岩展望台があります。
 西側に視野180度のスケールで一望できます。真ん中に和賀川、南西に大堤・相去地区、北西に北上市の中心を眺めることができます。 県道14号から入りすぐに左へ車を奥まで走らせます(途中からでこぼこの砂利道になります)。10台ほど停められる駐車場に着きます、街灯もあります。 そこから登ると芝生広場に着き、そこからも景色を眺めることができます。 亀の子岩展望台はトイレわきの道をさらに登っていきます。」

 奥の駐車場に車を停めて山登りです。途中、先導の私が道を間違えてしまい、引き返して少し時間を要しましたが無事に到着です。かなり気温も高く、皆さん汗だくで少し息切れ状態です。暫く景色を眺め、汗の引くのをまって休息です。







 展望台は亀の子岩の巨石の亀の甲羅部分にあり、そこから亀の頭と両手が突き出た感じになっています。
 亀の子岩の上で9人が四方十字に立ち配置に付きました。北の先頭に中山さん、中心に私が立ち、各方に2名づつで四方二重丸です。そこであわ歌を響かせました。その時のお言葉です。

「うえう いよ お~ ひ~ (拍手)
 只今より、この北への道へ結び行きて、
 大いなる道繋ぐを始め行く。
 光と陰、ひとつと成して道開けば、
 大いな新たと成すなり。
 生まれ来るは、ささら、さらりろ、さんさらり
 響きの中ぞ。」14:36

 素晴らしいお言葉です。中山さんは汗だくです。今回の巡りの大きな成果、頂きのように思います。北南、東西をひとつにし、光と陰をひとつにして道開けば新たとなす。生まれ来るのは響きの中。です。


 下りは心地良く、軽快に足を運び、あっと言う間に駐車場に到着です。巡りも残すところ2箇所です。次なる目的地、音石神社に向かいます。音石とは意味深な名前です。

2018年6月24日日曜日

1345「十字13」2018,6,24

 午後の最初の目的地は北上川の対岸、北上市立花にある立花毘沙門堂です。狭い道を進むと住宅地の北側にこんもりとした森があり道路から直ぐにお堂があり、こじんまりした境内です。



立花毘沙門堂の紹介の表記を紹介します。

「立花毘沙門堂。北上市の南東部、北上川の東岸にある寺。この地には奈良時代~鎌倉時代まで極楽寺という巨刹があったという。極楽寺は坂上田村麻呂が創建し、全盛期には36の僧房を数えたという。平泉が隆盛するまでは岩手県地方の文化の中心地だったという。その大寺も今は山に戻ってしまい、当時の繁栄を偲ばせるのはわずかに伝えられている仏像だけである。
 その仏像の一つがこの立花毘沙門堂にあるという事だったので来てみたのだが、無住で連絡先もわからず拝むことは出来なかった。本尊の毘沙門天像は鉈彫で十世紀の作、他の2体も十一世紀の作で国重文。」
http://www.sukima.com/16_hanamaki01_02/16tachibana.html

「立花毘沙門堂の南側に国見山という山がある。北上山系の西の端に位置し、標高こそ200メートル級と高くはないが、その名の通り国を見渡せるようなすぐれた眺望の地で、かつてこの山およびその周囲には大寺院があった。国見山廃寺と呼ばれて、多数の堂塔のあとが発掘されている。六国史のひとつである『文徳実録』に857年に陸奥国の極楽寺を定額寺(いわば準官寺)とするという記事が見えるが、国見山廃寺はこの極楽寺なのではないかといわれている。
 立花毘沙門堂は、集落のなかにぽつんとお堂と収蔵庫があるだけの小寺院であるが、かつての大寺院・国見山廃寺の北の坊の流れをくんでいるのではないかと考えられている。
 ところで、東北地方は神仏混淆の名残りが強い地域である。このお堂も鳥居が立ち、収蔵庫の入口にはしめ縄がついている。また、仏像を拝む時にもかしわ手を打つという。」
https://www.butsuzoutanbou.org/%E3%83%9B%E3%83%BC%E3%83%A0/%E5%B2%A9%E6%89%8B%E7%9C%8C/%E7%AB%8B%E8%8A%B1%E6%AF%98%E6%B2%99%E9%96%80%E5%A0%82/

 お堂の前に毘沙門像の説明の写真と解説があります。本堂の脇に現在は収蔵庫が立っています。内部に保管されている像は事前に連絡をしないと見れないようです。収蔵庫前の看板に設置してあるボタンを押すと毘沙門天の縁起が流れます。Sさんがボタンを押したので暫し解説に耳を方受けました。以下のサイトに像の詳しい内容、写真が見れます。
http://andon21.blog85.fc2.com/blog-entry-689.html


 更にインターネットで調べてみると見学した方の記事と写真がありました。その1枚は毘沙門天立像と増長天立像、持国天立像が配置されているものです。毘沙門天を中心に踊りを踊っている様な感じなのです。これは笑えます。こんな雰囲気で敵味方無く和やかに和せたらよいのにと思います。

 お堂の東側の銀杏の木の前で輪になってあわ歌を響かせました。その時のお言葉です。

「降り来る響きにその身を合わせ、
 ひとつとなりて参り行けば、
 この地の振動より離れ行き、
 硬きを脱し、柔らかきと成り成って、自在に空間動き行く。
 この歌、響かせ、大いなる身へと参りませ。」13:40




2018年6月23日土曜日

1344「十字12」2018,6,23

 次の目的地は同じ東和町北成島にある三熊野神社、成島毘沙門堂です。ここは日本一の巨大な毘沙門像で有名です。その紹介は以下です。

 「けやきの一本彫として日本一の高さ4.73mを誇る一本木彫の仏像。坂上田村麻呂が蝦夷平定の際、建立したとされる。国指定重要文化財。毘沙門収蔵庫に保管。
 社伝によれば坂上田村麻呂が対蝦夷戦争(蝦夷征討)に際して、征矢立(せいやたて)の森に登って紀伊の熊野三山に戦勝を祈願し、戦勝後の延暦21年(802年)にこの地に三山の神を勧請して創祀したという。
 また、康平5年(1062年)に源義家が前九年の役で安倍貞任を追撃した際には鏑矢を奉納して戦勝を祈願し、奥羽平定を叶えたともいう。中世には和賀氏から社領70石を寄進され、江戸時代になると元和4年(1618年)に南部藩藩主南部利直より社領23石が安堵された。
 近世には「熊野権現宮」と呼ばれ、境内に隣接する毘沙門堂(成島毘沙門堂)の鎮守とされ、古くからともに熊野山成島寺(じょうとうじ)を別当としていたが、明治初年(19世紀後葉)の神仏分離で成島寺を廃寺とした際に独立し、毘沙門堂とも分離した。旧社格は村社。   
 坂上田村麻呂または円仁の開基と伝えるが、創建の経緯は定かでない。5月上旬の3日間に「毘沙門まつり」が開催され、全国から2歳以下の幼児(性別不問)の参加を募って土俵上で対面させ、先に泣いた方を負けとする「全国泣き相撲大会」が行われる。」









 立派な構えで、社殿脇には「全国泣き相撲大会」が行われる土俵が設えてあります。何人かの参拝者がいます。毘沙門像は有料拝観です。境内を巡りましたが、昔の毘沙門堂は時間を感じる建物でした。
 ここではあわ歌を響かせることなく失礼しました。早々に昼食会場の北上市にむかいました。最近、多用しているホテルシティプラザ北上の和食どころの日高見です。昨日の昼食のレストランも日高見でした。両日とも同名のお店です。

 北上川はかつて日高見川と言われたといいます。支配者からかの指示なのか何時の頃から北上に変わり、地名も北上市になっています。ホテルは北上川に面して建っていて、川の向かい側が北上展勝地で桜の名所です。その紹介は以下です。

「北上川沿岸にある公園で、桜の名所として知られる。この桜は1920年(大正9年)に行われた桜の植栽事業で植えられたもので、現在、敷地約2万9,300平方メートルに、約1万本の桜と10万株のツツジがある。1990年(平成2年)、日本さくらの会より日本さくら名所100選に認定され、青森県の弘前、秋田県の角館(カクノダテ)と並んで「みちのく三大桜名所」のひとつに数えられている。樹齢80年以上のソメイヨシノが約2kmにわたって桜並木になっている。陣ヶ丘からの美しい眺めにあやかって展勝地と名付けられた。」

 食事処日高からは真正面にその景色を見れます。青空を背に緑に覆われた山々がたおやかに流れる川向こうに眺望出来ます。



 食事も日高見御膳を頂きました。美味しい豪華な内様で皆さん大満足です。暫しゆっくりと寛ぎ午後の巡りに向かいました。