早池峰神社の紹介です。
「霊峰早池峰の山霊を祀り、併せて早池峰山と共に遠野三山とよばれる石神、六角牛の山霊を祀る。現在の御祭神は瀬織津姫命とされる。
創祀は大同元年(807年)3月8日。猟師藤蔵(後に始閣と定む)が早池峰山頂に権現垂跡の霊容を拝して発心、山道を 拓いてその年の6月18日山頂に七尺余りの宮を創建して祀ったのが始まり。
山頂の社は本宮と称し、承和14年(847年)6月18日、藤蔵は薙髪して普賢坊の長子長円坊が本宮の傍に新たに建立した若宮と共に、現在当社の奥宮として祀る。
嘉祥年間(848年-851年)、天台宗の高僧である慈覚大師(円仁)が奥州巡歴の途次にこの地に至 り、宮寺妙泉寺を創建して坊を大黒坊と称し、不動三尊・大黒一尊各々本尊を別に新山宮と号し、三間四面の宮を建立して早池峯大権現を祀り、脇士として薬師・虚空蔵菩薩を 併祀。
坊には高弟である持福院(そのため持福院妙泉寺とも)を住職とし、神宮には長円坊を別当とした。祭祀は神仏混淆で盛大に行われ、信仰は県外に及び阿曽沼親綱(遠野阿曽沼氏、文治5年(1189年)奥州征伐後と思われる)の時代に120石が寄進される。
その後、南部直栄(寛永4年(1627)に遠野に入部)より65石の寄進を受け、計200石となり、明治維新を迎える。排仏棄釈により妙泉寺は廃され、新山宮改め現社号として現在に至る。
その間、寛治年間(1087年-1094年)に妙泉寺の宗派が天台宗から真言宗にかわり、文治5年(1189年)、火災で全焼するなどを経て、現在の社殿は享保3年(1718年)の建築。東西四十三尺一寸、南北三十三尺七寸、用材は主として楢・栗などを使用している。
その他、神楽殿、神門、 黒門、社務所などがある。神門は文化年間(1804年-1818年)の建立で、もとは仁王門と称し、仁王を安置していたが、妙泉寺の廃寺とともに土渕の仏師田中円吉作の随神像に替えた。」
更に妙見、九曜に関した興味深い記載を紹介します。
「遠野の地図上に現れた五芒星の頂点は、早池峰山の頂きを通り北極星を差している。その北極星あるいは北斗七星を神格化したのが妙見菩薩信仰(国土を守り災害をはらう菩薩)であることもわかった。
早池峰神社はもともと「早池峰妙泉寺」というお寺だった。そこで、妙泉寺のころの早池峰権現、早池峰大神は妙見菩薩のことを指しているのではないかと考え、「妙泉」と「妙見」が、どこか相通じるものがあるのではないかと考え、調べてみた。
しかし、早池峰山妙泉寺文書には「神殿を建て、十一面観音の垂跡早池峰権現を勧請して中央に安置し、その両側に薬師如来と虚空菩薩を配して脇士とした」と書いてあるだけで、早池峰妙泉寺文書のどこにも、妙見の字は出てこなかった。
「妙」の字を何の関係もなく使用するものだろうか。ただの偶然なのだろうか、と偶然にこだわり続けている。
「早池峰神社に九曜紋があった。伝承では、九曜は平家が伝えたものらしく、日月星の光が集まったもので、その中に妙見様が現れたことにある。なので、遠野の千葉家は妙見信仰だった。秩父にも妙見信仰が伝わるが、妙見さまは、亀に乗ってくるが水甕だろう。
北斗七星、北極星信仰である妙見様は、海を航海してきた民の信仰だと思われる。インドでは、九曜は星、天体のことで7つと他に2つの天体があるといわれ、その二つは実際にあった天体らしい…。しかし、妙見様とはどんな姿であったかなども、説明できない。
そうなると、どうしても次元の違う話になってくる。この世は三次元だからお手上げになる。だから誰も説明ができないし、何も残されていない、と思う。しかし、私には早池峰神社を歩いている間、ずっと次元が違う世界だと思えてならなかった。だから、何も感じないし、何も残っていないと感じる静けさがある。その静けさは、何も残されていないのではなく、三次元であることの無力さにあると思う。物質文明の人工的なモノが、いかに浅く、はかないものであるかを感じる、ものさびしい静けさにある。でも水神だけは祀るようにしている世界だけは残っている。それが母なる大地母神であると。それが早池峰の女神なんだと思うのです。」
朝の境内には誰もいません。九輪草が可憐な花を咲かせて、エゾハルゼミの合唱が響き渡り、私たちを迎えてくれました。そしてカッコーも鳴いています。
本殿前であわ歌を響かせました。その時のお言葉です。
「更なる進みへ、皆々共に参り行くは嬉しき事なり。
緩やかなる、たおやかに、悠々と進みて参りませ。
揺らがぬそれぞれ、ただただひとつなり。」8:50