その紹介です。
「正観音を安置し、通称青谷観音と称すが、明治の神仏分離に際し、少彦名命を祭神として音石神社と称す。江刺三十三観音巡礼、五番札所。
安永風土記には、寛文12年(1672)暮打場屋敷・後藤市衛門開基、祭日9月18日、脇仏不動毘沙門・弘仁2年(811)共に慈覚大師の作、不作十三体ありて元来別の御堂にありしが廃壌し此処に安置、享保年中、獅山公御菩提普間品読経仰付けられ、お伺いの上、竹に雀の御紋幕張執行せし由、今尚堂内に古損納置く、奥羽両国三十三所中二十番目の札とある。
北方約1粁に鳴石権現社があり、奥宮ともいわれる。この社地に、
男石(長さ9尺5寸・横4尺6寸、平石で延文2年10月2日の切付け有り)
女石(長さ6尺7寸・横4尺8寸、ひつみ有り)
枕石(長さ7尺余り・横1尺5寸、男石女石の間に有り)
この3つの石を小石を持って打つに、高く金鳴りの音するを以てこの地を音石鳴石という。
藤原秀衡が詣で、園の石になさんと男石を引かせたが、1丁程して後は更に動かし得ず、頻りに女石枕石を慕う音して鳴る事止まず、不思議に思い捨て置きし処、何くより貞春という座頭来たりてこの石を軽々と元の地に引き戻したといい、故にこの村を軽石村と名付けたと伝わる。他に座頭石、獅子石の5つの名石あり。」
http://www.jinjacho.jp/ganshinsei/ousyuushi/456a.html
駐車場がありません。県道の橋の手前に音石神社の鳥居があり路上駐車です。鳥居から右側の小川に沿う狭い参道を進みます。左手には岩壁が迫り出していて1人が通るのがやっとと言う箇所もあります。直ぐに社殿が正面にありますが境内は狭いです。私の足元を動くものがいます。蛇が小川の方に逃げるではありませんか。驚きですが誰も気づきません。
中山さんが音石を探しますが見つかりません。それもそのはずです。紹介文にある様に「北方約1粁に鳴石権現社があり、奥宮ともいわれる。この社地にある。」のです。後で私もその事に気付いたのですが遅きに失しました。
社殿前で輪になってあわ歌を響かせました。その時のお言葉です。
「あ~あ~ (拍手)
皆々様方、お分かりなされましたか。
大いなる響き、皆様へ降り来て、
ひとつと成られ、生み出だす 新たなるを。
是までのこの地を変え行き、新しきとなります。
この思いをしっかり持ち行き、その身の新しき現してくだされ。
是までは無しと致す。」15:41
鳴石権現ですが音石権現社と言われているようで、以下の様に記されています。
「音石権現社は字七日市にあり、本地は阿弥陀如来で嘉祥年中(848~50)開基といわれる。境内に七ツの石あり、打つと金属音がでるので音石神社の称あり。
男石を佐藤秀衡が館の庭石にしようと一丁ほど引き出し、その後どうしても動かなかった。しきりに女石、枕石を慕って鳴り止まず捨て置いた所、その後貞春という座頭が来て男石を軽々と元のところに引き戻したので、この地を軽石村と名付けた。男石は延文六年(1361)の銘あり。」
何時か音石権現社を訪れて石の響きを聞いて見たいものです。