2018年6月13日水曜日

1334「十字2」2018,6,13

 翌日2日から3日にかけて陸奥・毘沙門・妙見を巡る旅のno3です。今回はこれまでの2回の巡りを受けて、秋田県から岩手県中央部の東西の横のラインを成して、前回の東北の青森県から岩手県への縦のラインと岩手県の中央部で十字クロスする予定です。
 その事はこちらの意図を踏まえてなのか、前回の巡りの最後、4月8日の達谷窟毘沙門堂で頂いたお言葉にもあります。
 「大いなる日暮れに向かうこの世にありて、
  ひたすら響き持ちて、この北の地に十字を結びて、
  遥かへと発するは大いなる力なり。
  皆々様、その身の中心しっかり据えて、
  是よりの時を進み、乗り越え、新しき嬉しきへ。」

 このお言葉の内容を踏まえての今回です。各自は「その身の中心しっかり据えて、是よりの時を進み、乗り越え、新しき嬉しきへ。」がテーマです。
 そして今回の巡りのほとんどの場所が中山さんには初めての場所ですので、果たして如何なるか楽しみです。
 2日は快晴に恵まれ素晴らしい朝です。仙台駅に7時半集合して総勢9名が999の車2台に分乗して出発です。

 最初の目的地は秋田県仙北市田沢湖生保内神石にある「青龍大権現」です。東北自動車道を北上し盛岡から田沢湖方面に国道46号線を西に進みます。国道341号線に入り北上して、小先達の交差点を西へ曲がると、直ぐに「山のはちみつ屋」さんのお店があります。その先の直ぐ右手に北へ進む直線の農道があり、はるか向こうにある森にぶつかります。
 森を左に曲がり行き止まりです。車を降りてその森の中に更に進むと、杉木立の中、左手に朽ち掛けた鳥居と巨石が鎮座しています。これが青龍大権現です。案内板も無く詳細不明です。ここの地名が神石ですので、この巨岩を神石と古から崇めていたのでしょう。




 この青龍大権現に付いて詳しく記されたものを見つけましたので、その一部抜粋して紹介します。
「生保内と書いて「おぼない」と読む。アイヌ語で「深い川」を意味する。地名の由来に、前九年の役の時、源義家が仙岩峠を越えて東方を眺めると立派な里があるので、「こんなところがあるとは覚えていなかった」と称賛したことから「おぼない」の名がついた。というダジャレ説もある。
 林立する杉木立のなかに人の気配はまったくない。丸材で造られた神明鳥居の奥に木造の祠があり、その背後に、高さ約8mほどの龍の頭の形をした岩塊が、背後の山裾からこちらに向かって突き出している。リアルなその形状は、地名となった石神の名にふさわしく、大地の根底からわきあがる不思議なパワーを感じさせる。
 祠の左手後方に、注連縄の巻かれた立石とそれを取り巻く石組みがあり、そのかたわらに「青龍大権現 辰子姫供養」と書かれた板塔婆が置かれている。これが、あの辰子姫の墓だろうか。
山と里との「境界」で、悪霊どもに睨みをきかせる龍頭の岩塊「青龍大権現」

墓所のような石組。「辰子姫供養」と書かれた板塔婆がかたわらに置かれている

 過日、青龍大権現と辰子姫のかかわりを市の田沢湖観光情報センターに問い合わせてみた。送られてきた資料に「“丑寅日本記”という昔の文書に、辰子姫が願をかけるために、このお宮にお参りしたとも書かれている歴史のある所である。」と紹介されている。
 どうも雲行きが怪しい……。『丑寅日本記』は、『東日流外三郡誌(つがるそとさんぐんし)』で一大真贋論争を巻き起こした和田家文書のひとつである。
(途中省略)
 話を青龍大権現と辰子姫の関わりに戻す。
 生保内には、天慶の乱で奥州に落ち延びた平将門の娘・滝夜又姫が、この地に住みつき村の祖先になったという伝説が残されている。この滝夜叉姫が『丑寅日本記』に組み込まれている。滝夜叉姫は、平将門と阿倍國東の次女・辰子との間に生まれた娘であり、幼いときには楓姫と呼ばれていたとある。青龍大権現と関わる部分を以下に引用する。

 「~ 一族の者奥州日之本将軍阿倍氏の所領に遁走して救はる。中に将門の正室辰子、遺姫なる楓、成して滝夜叉姫母子は、仙北生保内邑に落着して忍住せり。時に、楓病弱にて、母辰子は青龍大権現の鎮む生保内湖の湖宮に三七二十一日の祈願をせしに、湖神なる青龍大権現の告を夢うつつに聞くも、楓姫を病に救ふは、母辰子を神のもとに仕はしむ、入水を告げて消えり。依て辰子は浮虫と曰ふ乳母に、楓姫のゆく末を頼みて生保内湖に入水せり。~」

 この『丑寅日本記』の伝承から、青龍大権現の辰子姫墓所説が生まれたものなのか明らかではないが、道を尋ねた折の「誰も信じちゃいないけど」という中年男性のツッコミも、ご神体里帰り騒動の記憶に根ざすものではなかったかと、今になって思われる。
 田沢湖町も偽書説は認め、遺憾の意を表したが、『田沢湖町史資料編』の発行から、すでに21年が過ぎ、偽書騒動はすでに風化したものと思われる。
 私の照会に対する回答が、『丑寅日本記』に依拠するものであったことには、丁寧な対応をしてもらっただけに複雑な思いがある。たわいのない伝承と思われるかもしれないが、その土地に残る伝承は大切に扱いたい。」
http://home.s01.itscom.net/sahara/stone/s_tohoku/aki_seiryu/seiryu.htm