2018年6月10日日曜日

1331「祈り旅12」2018,6,10

 雨も強まり、後の予定の花巻市の三熊野神社成島毘沙門堂、そして宮沢賢治所縁のぎんどろ公園はキャンセルして早めに宿に入る事に変更です。宿泊先は花巻温泉郷、大澤温泉菊水館です。沢山のお風呂があり温泉巡りが楽しみです。
 バスは一路、宿に向かいました。しかし、急遽、宿の途中にある熊野神社に寄ることになりました。

 熊野神社の境内に熊堂古墳群があり、発掘後、綺麗に保存され、その石棺の様子を見ることが出来ます。ここも何度か訪れていますがSさんの先導、案内で見学です。7世紀から8世紀の蝦夷の墓と思われます。熊野古墳群に説明は以下です。

「花巻南I.C.の西方にある古墳群。熊野神社境内がA地点、旧上中小学校(現在工場敷地)がB地点、神社西400mの宅地付近がC地点、神社の西がD地点となる。
A地点の熊堂古墳群は岩手県のほぼ中央部、花巻市上根子字熊堂に有り、北上川の支流で奥羽山系に源を持つ豊沢川の北岸で、標高約95mの沖積段丘上に立地する群集墓である。古くは「蝦夷塚」、あるいは「四十八塚」と称され、江戸時代以来数多くの副葬品を出土したことで知られる。
 熊堂古墳群は北上川中流域に、多く分布する群集墓の一つで、直径10m前後、高さ0.5~1.5mほどの小円墳の集まりである。遺体を埋葬する部分の主体部は川原石を積上げ、3m×0.5mほどの細長い長方形に作られている。
 古墳の築造年代は7世紀後半から8世紀中頃までと推定されており、東北地方北部の古代史、特に蝦夷社会を知る重要な遺跡の一つ。8世紀律令政府の下、この地方を支配した「蝦夷」と呼ばれる人たちの墓と見られ、現在、神社境内に11基、西側にも複数確認されている。
 遺跡からは色あざやかな玉類、権力の象徴である刀剣類など多数の副葬品が出土している。熊堂古墳群は豊富な出土品があったものの、正式な発掘調査の行われないまま、その大半は失われたとされてきた。岩手博物館では昭和61年度から発掘調査をし5基の古墳を確認するなど、熊堂古墳群の解明に取り組んでいる。
 実際には境内には9基の古墳が認められた。礫槨状の石室墳と土壙墓状のものが混在しているということが気になる特徴である。熊堂古墳群からは、実に様々な副葬品が出土している。玉類は、メノウ、ヒスイ、碧玉、滑石、ガラスなどで作られた勾玉、碧玉やガラス製の管玉、水晶の切り子玉、ガラスや琥珀などの小玉類などがある。鉄製品は、蕨手刀をはじめとする刀剣類が多く出土している。鋤先や斧などの農具も見られる。その他に和同開珎やカ帯金具など、明らかに奈良時代に作られたことを示す遺物もある。さらに飾り馬具の一部と考えられる、毛彫りの施された金銅製の金具なども発見されており、当時の文化の水準を考える重要な手掛かりとなっている。
 神社由来。西暦800年頃、坂上田村麻呂が胆沢城と紫波城との相互連絡を容易に出来るようにするため設けた盤城駅が、今の熊野とされている。その坂上田村麻呂が信仰していた熊野大権現を勧請し、三社あったものを明治維新後現在の熊野神社に合祀された。」






 ここでは特にお祈りの儀式をする事無く見学で失礼しました。口羽和尚は経を上げてお祈りをされておれられました。

 大澤温泉菊水館は熊野神社から10分程で到着です。大澤温泉は豊沢川の渓流沿いに山水閣、湯治屋、菊水館の3つで構成されている温泉です。湯治館はもっとも古く自炊客用です。山水閣は近代的な優雅な設備、そして菊水館は木造旅館の雰囲気です。以下の様に紹介されています。
「豊沢川を挟み曲り橋の先に建つ茅葺き屋根のお宿。茅葺き屋根の建物は160年以上前にできたといわれ、幕末には南部藩主も訪れております。建物の裏手の石垣には菊の紋の石組みがあり、そこから湧き水が出ております。これが菊水舘の名前の由来となりました。」

 大澤温泉には、今からおよそ1,200年前の延歴年間、征夷大将軍坂上田村麻呂が東征の際、蝦夷軍の毒矢に負傷しましたが、大沢の湯に入浴してほどなく傷が癒えたという伝説があります。