本殿から西に200mほど行くと羽黒山山頂でそこにアテルイ・モレに慰霊碑が建立されています。そちらでSさんから説明を頂きました。西には奥羽山脈が眺望出来るのですが今日は雲で見えません。
顕彰の石碑には阿弖流為と母禮の名前を並べ、その下に慰霊碑と刻まれていています。その揮ごうは京都清水寺の森清範貫主です。慰霊碑にはアテルイとモレが処刑された河内国の土(枚方市牧野公園内の塚の土)を分霊として納めているとのことです。
慰霊碑の脇に高さ1.2mの碑誌がありそこに以下の様に記されています。
「碑説明板
アテルイ・モレ顕彰の地
朝廷は服属しない陸奥の民を夷狄・毛人・蝦夷などと呼び、蔑視していましたが、八世紀の中ごろ以後、砂金が採掘され、農耕が進み、馬が飼育されるようになると、宝亀七(七七六)年の第一回以降四回にわたって大軍を動員し、攻め入ってきました。
胆沢の長アテルイと盤具の長モレは、この侵略阻止に立ち上がり、延暦八(七八九)年、巣伏(四丑橋付近)の戦いでは、紀古佐美の朝廷軍に大勝利をおさめました。
その後も朝廷軍は再三侵攻し、延暦二十一(八〇二)年には胆沢城が築かれたため、やむなく仲間五百余人とともに、坂上田村麻呂に降伏しました。
二人は同年八月十三日(新暦九月十七日)に河内国(大阪府枚方市)で処刑されました。この羽黒山は、『続日本紀』延暦八年六月条の「四百人ばかりありて、東山より出でて官軍の後を絶てり」の東山に比定できることから、私たちはアテルイ・モレを始めとする先人たちの自主独立の気概、郷土愛に深く心を打たれ、ここに慰霊碑を建立しました。今後、この地を「顕彰の地」として、永く語り継ぎたいと考えています。
平成二十一(二〇〇九)年九月十七日
アテルイ・モレを慰霊する会 及川洵 撰文」
アテルイ、モレ没後1207年後にこの地に建立されています。歴史の中に消され、封印されていた多くの事ごとがあるのでしょう。しかしこの地の方々にアテルイ、モレへの思いが原点です。アテルイを顕彰する会として平成3年(1991年)4月27日に設立されています。http://aterui8.jp/about/
実は京都清水寺にも1994年にアテルイ・モレの顕彰碑が建立されています。碑文の裏に以下の様にあります。
「八世紀の末頃まで、東北・北上川流域を日高見国(ひたかみくに)と云い、大和政府の勢力圏外にあり独自の生活と文化を形成していた。政府は服属しない東北の民を蝦夷(えみし)と呼び蔑視し、その経略のため数次にわたり巨万の征討軍を動員した。胆沢(いざわ:岩手県水沢市地方)の首領、大墓公阿弖流為(たのものきみあてるい)」は近隣の部族と連合し、この侵略を頑強に阻止した。なかでも七八九年の巣伏(すぶせ)の戦いでは、勇猛果敢に奮闘し征東軍に多大の損害を与えた。
八〇一年、坂上田村麻呂は四万の将兵を率いて戦地に赴き、帰順策により胆沢に進出し胆沢城を築いた。阿弖流為は十数年に及ぶ激戦に疲弊した郷民を憂慮し、同胞五百余名を従えて田村麻呂の軍門に下った。
田村麻呂将軍は阿弖流為と副将磐具公母礼(いわぐのきみもれ)を伴い京都に帰還し、蝦夷の両雄の武勇と器量を惜しみ、東北経営に登用すべく政府に助命嘆願した。しかし公家達の反対により阿弖流為、母禮は八〇二年八月一三日河内国で処刑された。
平安建都千二百年に当たり、田村麻呂の悲願空しく異郷の地で散った阿弖流為、母礼の顕彰碑を清水寺の格別の厚意により田村麻呂開基の同寺境内に建立す。
両雄以って冥さるべし。」
田村麻呂とアテルイとの間には深い友情、強い信頼関係があったと言われています。しかし田村麻呂の嘆願虚しく2人は処刑されてしまいます。そして田村麻呂もやがて嵯峨天皇の命により、鬼門の東北、を守るように武具をつけたまま都に向かって立ったまま葬られたと言い伝えられています。
清水寺の創建と坂上田村麻呂との関係は以下のようです。
「清水寺の開創は宝亀9年(778)で奈良子島寺(こじまでら)の賢心(けんしん:後の延鎮上人)という僧侶だが当時は小さい草庵があっただけだったという。その賢心が宝亀11年(780)に坂上田村麻呂と出会い、賢心の話に感銘した田村麻呂が、自らの邸宅を仏殿に寄進したのが清水寺の創建だと言い伝えられており、その後幾度か災害や戦災に遭い再建復興を繰り返してきたそうで、現在の伽藍は徳川三代将軍家光により寛永10年(1633)に再建されたものだという。」
坂上田村麻呂所縁の寺にアテルイ・モレ顕彰碑が祀られたことは大きなことに思います。
そして今回の祈りの旅はアテルイ、モレ以外の多くの蝦夷の民を祈り、それと同時に大和朝廷側の坂上田村麻呂を始め勝者側の皆様の霊も祈り、浄化することが意図されています。