食後の散策は浄土ヶ浜です。ホテルから散策路を下り、直ぐに海岸に着きます。土曜日の天気に恵まれた浜には沢山の観光客が訪れていました。綺麗な透き通った海にそそり立つ白色の岩の並びはさながら浄土のようです。子供は浜辺で海水浴で楽し気にはしゃいでいます。浄土ヶ浜の紹介は以下です。
「三陸復興国立公園・三陸ジオパークの中心に位置する浄土ヶ浜は、宮古の代表的な景勝地。
鋭くとがった白い流紋岩が林立し、一つ一つ違った表情を見せて海岸を彩ります。松の緑と岩肌の白、海の群青とのコントラストはまさに一見の価値あり。
浄土ヶ浜の地名は、天和年間(1681〜1684)に宮古山常安寺七世の霊鏡竜湖(1727年没)が、「さながら極楽浄土のごとし」と感嘆したことから名付けられたと言われています。浄土ヶ浜の岩肌は、5200万年前にマグマの働きによりできた流紋岩という火山岩で、二酸化ケイ素を多く含むため白い色をしていると考えられています。
また、マグマが流れた模様「流理構造」やマグマが急に冷やされたときにできた板状の割れ「節理」を観察することができます。」
「約5200万年前の古第三紀(地質時代上、白亜紀の次に位置する)に形成された火山岩からなる白い岩塊と同色の小石によって、外海と隔てられた波穏やかで清明な入り江が形成される。また岩上には、岩手県の「県の木」であるナンブアカマツをはじめとする常緑樹の群生が見られ、これらによってあたかも日本庭園のような美しい景観が醸し出されている。
また、入り江を形成する岩塊の裏側(外海側)には、太平洋の荒波の浸食を受けた、入り江側とは対照的な男性的ともいうべき景観が見られ、これらは、「剣の山(針の山とも)」「賽の河原」「血の池」等、同じ東北地方に位置する恐山の地名呼称と共通する名称で呼ばれている。
海岸名の由来は、天和年間(1681年 - 1684年)に、曹洞宗に属する宮古山常安寺七世の霊鏡竜湖(1727年没)が「さながら極楽浄土のごとし」と感嘆したことから名付けられたとする説が、同海岸周辺を遊覧する観光船の案内放送等によって一般に広く知られている[1]。寛政9年(1797年)に盛岡藩主の南部利敬が領内巡視をした際、横山八幡宮・黒森神社と共に当地を訪れており、当時から風光明媚な場所として知られていた。また「浄土ヶ浜」(浄土浜)の地名は当時の藩の記録のほか、江戸時代中期の元文年間に藩により作成された絵図にも見られる。」