「黒森神社(くろもりじんじゃ)は、岩手県宮古市に存在する神社。重要無形民俗文化財の黒森神楽が舞われるほか、『権現様』と呼ばれる岩手県の指定文化財にもなっている獅子頭が多数保存されている。
宮古市中心部から北に2キロほどの位置にある、標高310,5mの黒森山の山中に存在する。黒森山の麓の遺跡からは奈良時代のものとみられる密教法具が出土しており、古くから霊山として地域の信仰を集める場所であった。明治以前は『黒森権現社』と呼ばれ、千手観音を祀っていたとされる。古くから山伏の修行の場として栄え、社に伝わる重要無形民俗文化財の黒森神楽はこうした修験者により伝えられてきた、東北地方に多く残る山伏神楽の代表的なものである。
建武元年の鉄鉢や南北朝時代のものとみられる獅子頭など多くの文化財も残されており、また当時の支配者であった南部氏の名の見える室町時代の棟札も存在するなど代々盛岡藩主からの信仰も厚く、社殿の再建や修復に援助するなどの保護を受けてきた。
元文4年(1739年)までは文字通り黒森で、直径1-4メートルの巨大な杉や松が100本以上あったという。明治以前は黒森権現社と呼ばれ、千手観音を祀っていたとされる。
古くから山伏の修行の場として栄え、社に伝わる黒森神楽はこうした修験者により伝えられてきた、東北地方に多く残る山伏神楽の代表的なものである。
平安時代末期の文治4年(1188年)4月、平泉高館自害の1年前、源義経は影武者の杉目行信を残してひそかに平泉を脱出して、この山で3年3ヶ月にわたり「大般若経」を書写し祈願したとの伝説が残っている。「黒森」は「九郎森」から転じた名とも。」
「黒森山は神奈備(かんなび)系神体山(低山・優美・分水嶺)、二千年前から閉伊全域の信仰の対象とされてきた山である。平安~鎌倉期に神仏習合の影響をうけ、本地仏聖観音として定着し、人の世の苦難救済の本願所となった。室町期にその権現として獅子頭が奉納され、農繁期には毎年豊作を記念して村々を巡行した。現在二十数頭の獅子頭が保存(大半が県指定有形文化財)されていることは全国的にも珍しい。真言密教の祈願社として、南部藩主から篤く崇敬されてきた。
黒森山内図は資料に基づき(一部伝承)作成したものである。黒森山は、旧参道をお登り、いたこ石から「古黒森」に至る道中が素晴らしい。「古黒森」は黒森祭神の始まりの場で古墳と推定される。後年御本社旧殿跡、現社殿へと移転した。現社殿は嘉永三年(1850)の建立。」(※現場にある案内板より)
参道の階段を登り上がると本殿が正面に見えます。参道を上がりきった境内の入り口の両側に巨木があります。榧(かや)イチイ科・推定1300年くらい、と案内板にありました。一段目の境内には、昔の本殿跡に石が残っています。右側に潜水艦伊12号にまつわる石碑があります。
黒森山のモミの木が北限といわれています。「おば杉は6000~7000年位、境内の杉は1000年位、モミ、カヤの木は1300年位とのことであった。」(※大阪市樹医 山の忠彦先生鑑定より)
この地には義経伝説も伝わっています。
「悲劇の名将と世にうたわれた源九郎判官義経は、兄の頼朝に追われ、文治五年(1189)四月、平泉の高舘において三十一歳で自刃したとされている。この史実に対し、「平泉で自害したのは実は家臣で、義経は北へ逃げ延びたのではないか」という説が、今も根強く残っている。
その伝説の一つに、「この黒森山は、平泉を脱出した義経主従が三年三月にわたって行を修め、般若経六百巻を写経し奉納した。黒森は、九郎森から転じたものである」と伝えられて居る。その般若経の一部が諸処に現存するという。」(※現場の案内板から)
鬱蒼と生い茂る木々の間から光が降り注いでいます。涼しく暫し円卓を木内さんと囲んで雑談を楽しみました。エネルギーに満ち満ちた神秘の世界です。