浮金山十三仏霊場については以下の様な紹介があります。
「奇岩・巨岩のミステリーゾーン。長沢の旧神倉分校より南川目を奥へ2.5㎞ほど入ったところに十三仏がある。橋を渡って約50m程行くと、案内板があり、そこが入り口となっている。そこから山に入り登ること約15分くらいで山の中腹に大小の奇岩群が現れる。天高くそそり立つ岩や、崖の上に突き出た岩等、色々の岩場のあちらこちらに十三仏碑、その他の石碑合わせて約40基程が点在している。
ここは古くからの霊場であったものに、鞭牛が再興開山したもので、宝暦5年(1755)から宝暦10年(1760)街道の開削の合間をみながら再興が行なわれた。鞭牛和上は、百姓達の苦しい生活、悪路による犠牲者の数々を見聞きし、宝暦8年閉伊街道の開削をタガネとゲンノウのみの手堀りではじめ、難所の開削を次々と行なった。そして、その偉業は天明2年73才で大往生するまで続けられた。」
「長沢地区南川目と津軽石米山地区にまたがる大笹山(612、2m)の中腹に数基の巨岩が露出した修験霊場十三仏があります。この地 がいつ頃から地元の山伏や修験者の霊場として機能していたは不明ですが、江戸時代の宝暦の頃(1751~1763)橋野村林宗寺住職を引退隠居し一人の宗 教家としてこの地を訪ねた僕庵鞭牛が廃れていた十三仏を復興させたと伝えられています。十三仏とは人の死後、成仏までを司る節目に存在する仏尊十三体に対する信仰で、鎌倉時代に日本で考案されました。鞭牛は霊場を寺に見立て浮金山と命名し巨岩の窪みや割れ目などに仏尊の名を刻んだ石碑約30基を配置しています。また巨岩と巨岩の隙間になった空間を母の胎内、父の胎内とし胎内潜りの行場としています。」
上の説明文に登場する牧庵鞭牛については以下の様な方で素晴らしい業績をこの地にもたらした方です。
「牧庵鞭牛は元禄後の宝永7年(1710)に和井内の農家に生まれました。出家し仏門に入った年齢は諸説ありますが、延享4年 (1747)に37歳で橋野村林宗寺の六世となりました。その後宝暦5年(1755)に起こった南部藩の大飢饉の惨状に生活道路の重要性を痛感、林宗寺住職を引退し、隠居の身となり天明2年(1782)に没するまでの三十数年間を道路開発にささげました。鞭牛はその頃は廃れていた十三仏を浮金山と命名し復興させ、十三仏にほど近い岩屋を活動拠点とし山田方面の浜街道、川井方面の閉伊街道の開削工事を同時期に一手に行いました。鞭牛はこの岩屋で寝泊まりし自 らの思想の具現化に向けて冥想したと思われます。」
年譜は以下ですが、この方の事を知った時に、その生涯に驚きを禁じえませんでした。
「8歳で曹洞宗林宗寺(岩手県釜石市橋野町)に入ったとも、15歳で鉱山師に、あるいは牛二頭に荷を運ばせる牛方として北上山地の鉱山の鉱石運搬をしたともいわれる。
22歳のとき、母が死亡し、栗林村常楽寺(岩手県釜石市鵜住居町)の円城郭雄和尚のすすめで出家。
23歳のとき、吉里村吉祥寺(岩手県上閉伊郡大槌町吉里吉里)の活堂見牛(後の大到見牛)のもとで修行、晩年には師匠見牛と道路改修を行っている。
32歳で常楽寺住職となり、38歳で林宗寺住職(六世)となる。
40歳のとき、林宗寺を現在の位置に移転、以後、道供養碑などに林宗寺六世とされていることが鞭牛開削の証拠とされる。
41歳のとき、初の道路開削として釜石橋野町・中村~吉里間の小枝街道を開削した。
牛方や鉱山夫をしていたときから、悪路に苦しみ、犠牲者を数々知っていたため、物資の運搬等で苦労している道路の不便さをいくらかでも解消しようと道づくりはじめた。
46歳のときに林宗寺を弟子に託し近くに寄進された屋敷に隠居するが、この年、三陸・閉伊地方を襲った飢饉で彼はその惨状を嘆き犠牲者の供養と道路改修に生きる意志を固めたと言われている。
以後、三陸沿岸の海辺道をはじめ、宮古から盛岡に至る往路(現在の国道106号線)などの開削に生涯をささげた。
道路改修にあたっては、ノミや玄翁(げんのう)と言った基本的な道具を使用し、道をふさぐ巨岩に対しては、薪で熱し冷水をかけ脆くしてから破壊するという当時としては画期的な方法を用いた。
51歳のとき、山田町船越山ノ内(岩手県下閉伊郡山田町船越)に南無阿弥陀仏碑建立。
鞭牛は、一つの工事が終わると死者の霊を弔い、通る人々の安全を祈り、供養碑を建てたという。
56歳のとき、宮古市閉伊川岸の七戻りの難所開削。一方は切り立った岩山、一方は深い川に阻まれ、足がすくむほどの難所だったと言われている。
68歳のとき、釜石市橋野町~鵜住居町間の剣の難所開削(岩手県釜石市橋野町)、断崖と橋野川の急流に沿って細道のために、人々がよく転落した「剣」を開削した。
69歳のとき、大槌町小鎚川に架橋。旧道のこの地から小鎚川を渡って町に入る古廟橋の改修を行った。
僧侶として民衆の精神的教化だけにとどまらず、社会生活の障害を取り除くため道路工事に生涯をかけ、数多くの難所を克服した。携わった道路の総延長は約400kmといわれ、岩手県内道路開削の先覚者であった」
この牧庵鞭牛は岩手の偉人として賞賛され、郷土の誇りとされています。そして彼の功績を讃えた記念碑が宮古市内の各所に建てられていています。
渓流沿いの狭い道を暫く進みやがて到着です。車を路上に止めて山道を登ります。西の空の雲行きが怪しくなってきました。木内さんは雨が来ると傘を持参して進みました。直線的に上る男坂は避けて女坂をゆっくり登ること15分弱で最初の巨岩の阿弥陀仏、体内窟に到着です。巨石はあまりに大きくカメラに前景を収めるのは無理です。威容を体感し、黒雲も迫って来ているので早々に下山しました。車に着いて雨が降り出しましたのでラッキーです。土砂降りの雨を受けながら車は東へ向かいます。