大槌の町は復興半ばでまだ道路、区画整備も途上です。宿への道も寸断されていて遠回りで向かいました。
宿に到着しましたが、新装なった宿が突然現れた感じです。
宿の名前は、宝が来る館ということで名づけられています。しかし311東日本大震災の津波では甚大な被害を受けていました。そのことを宿のHPから紹介します。
宿の名前は、宝が来る館ということで名づけられています。しかし311東日本大震災の津波では甚大な被害を受けていました。そのことを宿のHPから紹介します。
「震災後、宝来館の再開を考えたときの女将の想いです。木造の建物は津波に流されてしまい、残るのは鉄筋や鉄骨でした。それでも「ぬくもりあるものに囲まれていたい――。」という想いが、今回の木の宿づくりへと舵をきりました。
震災前の根浜海岸は、幅200m、長さ2㎞の砂浜がある白砂青松100選にも選ばれるほど美しい海岸でした。夏にはたくさんのお客様が海水浴を楽しんでいらっしゃいました。
あの美しい風景をもう一度皆さまに見ていただきたい…時間はかかりますが、根浜の風景が戻るまで宝来館はずっとここに在り続けます。
残されたものはわずかです。だからこそ残された松林と砂浜の空間で、活かせるものすべてを活かしていきたいと思っています。」
宝来とは蓬莱でもあります。大槌湾を望む宿からは湾に浮かぶ蓬莱島が見えます。蓬莱島には色々な逸話、いわれがあります。
「江戸時代、盛岡藩により作成された絵図面を見ると、大槌湾内に「珊瑚島」の名が見られます。名称の由来については不明ですが、一説には、弁財天の持つ琵琶の長さが「三尺五寸」である事から、転じて「三五(珊瑚)」になった、とも云われています。
史料での初見は元文3年(1738)3月5日。藩主の南部利視公が大槌を巡検、吉里吉里の前川家のお召し船で大槌湾内を遊覧した際、珊瑚島を「蓬莱島」と呼ぶよう命じたとあります。また、寛保元年(1741)・寛政9年(1797)にも藩主による巡検が行われ、蓬莱島に上陸したりしました。
蓬莱島には古くから弁財天が祀られています。由来については不明ですが、江戸時代に記された『奥々風土記』により、珊瑚島に「宇賀神」を祀っていた事がわかります。
一方、弁財天については、鎌倉時代に津波により漂着した弁財天を地元の漁師が祀ったのが始まりと云われています。この弁財天と宇賀神が合わさった日本独自の信仰が、中世に広く流布します。蓬莱島の弁財天もこの一種と思われます。この二神はどちらも水に関わる信仰がある事から、近隣の漁師の信仰を集めていたようです。
また、古くから大槌に伝わる祭の一つに「曳舟祭」がありますが、これは、大槌稲荷神社の神輿を船に乗せて大槌湾内を海上渡御する際、蓬莱島の傍で停船し、そこの海水で神輿を清めました。これは、蓬莱島が一種の御旅所的な性格を備えていたと考えられます。
このように、江戸時代から現代に至るまで近隣漁師の信仰を集め、祭にも深くかかわっていた事が窺えます。
前川家は、吉里吉里を拠点として、漁業をはじめ関東や長崎に向けた海運業で栄えた豪商です。代々「前川善兵衛」を称し、別名「吉里吉里善兵衛」とも呼ばれました。
小田原の後北条氏の家臣であった清水富英が小田原合戦後に奥州へ逃れ、その子富久が吉里吉里に住み付き前川と改姓、富久の子富永から代々「善兵衛」と名乗るようになりました。本拠地は吉里吉里にありましたが、港は安渡にあったようです。
盛岡藩に多額の融資を行い様々な特権が与えられる等、藩の御用商人として栄えました。最盛期は「三都(江戸・京都・大坂)」に広くその名が伝わり、「みちのくの紀伊国屋文左衛門」と称される等、江戸時代を代表する豪商だったようです。特に前述の三代目助友(富永の子)は、大型廻船を複数備え、東北と江戸を結ぶ東廻り航路を開拓しました。また、前述の元文3年の藩主巡検の際も、安渡及び吉里吉里の私邸に藩主をお招きする等、藩主の覚え目出度かったようです。
しかし、四代目富昌の代の宝暦3年(1753)、日光東照宮修復にかかる多額の費用を藩から割り当てられた事や、大凶作により近隣住民に雑穀を振る舞う等したため、家運は大きく傾いたと言われています。
五代目富能の頃の享和元年(1801)9月28日、伊能忠敬を中心とする幕府天文方が沿岸部を測量した際、伊能忠敬は前川家を訪問しています。名主の子から商家に養子に入った伊能忠敬は、かつての前川家の繁栄を長年聞き及んでいたようで、測量の手を休めてわざわざ前川家を訪問し、歓待を受けています(富能は、その年の11月28日に逝去)。
伊能忠敬が測量中に私用で動いたのは、この前川家の一件だけだったようです。
代々の前川善兵衛は、各地に寺社に石灯籠や神輿等を寄進するだけでなく、交易の過程で「虎舞」という芸能をもたらしました。沿岸各地に伝わる虎舞の中で最も古いと云われているのが、「吉里吉里の虎舞」です。
このように前川家は、大槌をはじめ沿岸部だけでなく、全国に大きな影響を及ぼした事がわかります。そして、今ある蓬莱島は、前川家の尽力の賜物と言っても過言ではありません。
なお、前川善兵衛に関する史料については、その全てが江戸時代の漁業史を考える上で極めて重要とされ、「前川善兵衛家文書」として水産庁が保管しています。
前川家については、諸国とどのようにつながっていたのか、まだ不明確な部分もあります。今後の調査により前川家の詳細が判明すれば、蓬莱島がどのような歴史や信仰を経て今に至るのかも解明されるでしょう。
大槌出身で全国に名をとどろかせた豪商「前川善兵衛」。前川家に格別の思いを寄せていた「伊能忠敬」。蓬莱島に祀られた弁財天のもととなっている「江ノ島」。
昭和39年に放送され、いまだに多くのファンを持つ、人形劇「ひょっこりひょうたん島」。
独立国ブームの先駆けともなった、初代前川善兵衛も登場する「吉里吉里人」。「ひょっこりひょうたん島」「吉里吉里人」の他、伊能忠敬が主人公の「四千万歩の男」などを執筆した「井上ひさし」。井上氏と親交が深く、正午のチャイムの音源にも協力する等、大槌町と深いかかわりのある世界的なジャズピアニスト「小曽根真」。蓬莱島を核として、様々なものが縦横の時間軸を通して密接に結びついている事がわかります。
宿の露店風呂から松林の向こうに大槌湾を望めます。今日の旅の疲れを癒しながら、この地に関わる多くの方々の思いに頂き今あることに感謝です。
夕食も海の幸が満載です。食べきれないほどの料理に、飲む酒も美味しく楽しい語らいの時です。2次会も大いに盛り上がり気づいたら午前様でした。
綺麗な海ですが、この海を見ながら木内さんはある思いに駆られていました。