以下のように紹介されています。
「橋野高炉跡及び関連遺跡は、日本の近代製鉄の発祥の地といわれています。古来、日本では、「たたら製法」による砂鉄を原料とした製鉄法で大砲を製造していました。しかし、この製法では、欧米列強の優れた性能を持つ大砲には太刀打ちできませんでした。
そのため、西洋の大砲に対抗できる近代的な兵器の製造には、良質な鉄を大量生産する高炉法が必要と考えるようになり、高炉建設へと進んでいきます。この高炉ですが、反射炉とは違い、鉄鉱石を溶かして鉄にする溶鉱炉のことをいいます。
釜石の地で、高炉建設に成功した要因は2つあります。
一つは、良質の鉄鉱石が採れる採掘場があったこと、
二つ目は、盛岡藩士であり天才技術者・大島高任(たかとう)の存在があったことです。」
「1727年(享保12)年、盛岡藩の阿部友之進が釜石の西方(大橋)で磁鉄鉱を発見。しかし藩は採掘禁止としました。1856(安政3)年。水戸藩の要請で反射炉の操業に成功した大島高任が、その翌年、南部藩の許可を得て、釜石に洋式高炉を築造。大橋産の良質な磁鉄鉱を使って、日本で始めて鉄鋼の製造に成功しました。1857(安政4)年12月1日は日本における近代製鉄の幕開け。鉄の記念日として今に伝えられています。
橋野高炉は、南部藩士大島高任が、安政5(1858)年に仮高炉 (のちに改修され3番高炉)を建設したことから始まります。その後、安政6(1859)年に橋野の専任技術者として赴任した田鎖仲と田鎖源治が万延元(1860)年かその翌年に1番高炉、2番高炉の2基を完成させたと考えられます。
明治元年には製鉄事業と鋳銭事業を藩直営のもと兼営していましたが、実際は小野権右衛門(井筒屋)の出資のもと経営されました。明治2(1869)年に政府の指示により銭座は休止となり、明治7(1874)年の官営釜石製鐵所事業にももれたことから、民営のまま3番高炉は操業を続け、明治26(1893)年まで稼動しました。
昭和30(1955)年、31(1956)年に岩手大学教授森嘉兵衛、板橋源氏により発掘調査が行われ、昭和32(1957)年6月に国指定史跡となり、昭和59(1984)年にはアメリカ金属協会から歴史遺産賞を贈られ、国内外から高い評価を受けています。」
橋野鉄鉱山インフォメーションセンターで展示物、ビデオで予備知識を学びましたが、センターに展示してある磁鉄鉱の塊に皆さん興味しんしんです。
それから現地見学ですが、時間もあまりありませんので三番高炉付近だけの見学です。
それから現地見学ですが、時間もあまりありませんので三番高炉付近だけの見学です。
高炉の熱源の樹木の伐採で近隣から木が無くなり、鉄鉱石は取れてもこの地での高炉の継続は難しくなり30数年で休炉となりました。すべてが人足、人力で行われた山中での労働は過酷な生活を強いられたのではないかと思われます。
見学もそこそこに失礼しました。