2018年11月20日火曜日

1494「陸奥16」2018,11,20

 立石神社は一関市藤沢町増沢字立石1にあります。私はこの立石には何度も訪れていますが、陸奥では稀有な、特筆すべき巨石です。当初のプランでは陸前高田市から気仙沼市、東松島市と太平洋岸を南下する計画で皆さんに案内していましたが、直前の直観で変更することにしました。木内さんは立石は初めてですので、出来たらここには是非ともお連れしたいと思ったのです。結果的に先に紹介した、仙婆巌の陽神岩・陰神岩、続石山大原寺跡、夫婦石、重箱石を巡る事になったのです。
 大分、陽が傾き曇り空になってきましたが16時前頃に到着しました。立石神社は以下の様に紹介されています。

「立石神社という名のお社は、全国各地にたくさんあります。名前の通り、石神をお祀りしている場合もあります。その中でも、岩手県一関市藤沢町増沢の立石神社は、群を抜く存在感があります。
 祭神は倉稲魂命(うかのみたまのみこと)で、応和二(962)年、山城国紀伊郡飯鳳山よりの勧請と伝えられています。拝殿は入母屋造りの3間×2間の小さな建物ですが、本殿背後には御影石の巨石があり、御神体となっています。 
 横から見てもかなり大きい岩ですが、背後に下りると様相が一変します。単なる立石というより、巨石神像にすら見えるから不思議です。
 中央の巨石は高さが約17m、周囲が約11mもあります。無言で見下ろされているような、黒々とした圧倒的な迫力には、畏敬の念を禁じえません。まさに神です。
 かつて役人が、この石を別の建造物に使うために石工達を伴って来ると、その石の根元に大蛇が絡みついて離れなかったので、工事を断念せざる得なかったといわれています。ということは、ここの神様は本来蛇体だったのかもしれません。
 なお祭神の倉稲魂命は、稲の精霊が神格化されたもので、五穀や食物をつかさどる神とされます。日本神話では、伊奘諾尊が飢えたときに生まれた神という特殊な出自です。また神武天皇が戦場で祭祀をした際に、供物の干飯に厳稲魂女(いつのうかのめ)という名をつけたとあり、本居宣長はこれをウカノミタマと見ています。
 アラハバキ神のような土着の神を祀る巨石に対して、畿内の農耕文化と信仰を持ち込んだもでしょうか。土着の人々との確執もあったに違いありません。
 軽の四輪駆動車なら、神社まで登れます。普通車なら、倒れた案内柱のあるところまで。案内柱のところから左へ登るのですが、まっすぐ行くと左側斜面の上方、樹林の間に巨石群が見えます。この光景も神秘的です。
 とにかく想像以上の畏怖感、存在感でした。全国的にも稀にみる聖地といっていいでしょう。」

 鳥居を過ぎ、短い階段を登ると直ぐに拝殿です。私が1番最初に神社を参拝した時、後ろにある巨石に気づかずに帰ってしまいました。社、大和の神を祀る神社は巨石を、古のこの地の民の信仰、アラハバキ等を隠す為の作為があるのか、と思いました。
 直ぐに神社の右側に回り崖を下って、神社背面、北側に下りました。巨石がそそり立って北の天を指しています。木内さんはこの巨石群に強い興味を示し、調べ出しました。配置、方角、そこに隠されている意図を読み解こうとされています。





 この巨石群は明らかに人工的なものだといいます。舞台の様な石の奥に何かが隠されていているのではないかとも。時間を取ってしっかり石の配置図を作成したら面白いもの見えて来るのではないでしょうか。












 ぐるりと時計回りに巨石群を見て拝殿の左に戻りました。社の脇で何故かシートを敷いて興じている若者4人がいました。日が当たらないジメジメした所で何故騒いでいるのか?違和感!です。