2019年3月2日土曜日

1596「天命1」2019.3.2

 立花大敬さんとのご縁はかれこれ20年前で、トータルヘルスデザインの近藤社主の紹介です。天命塾の名付けの親が立花大敬さんで、仙台天命塾の第2回講演会は立花大敬さんでした。私にとっての大事な師であります。昨年11月25日に仙台で講演会がありましたが残念ながら私は参加出来ませんでした。その時の記録を仲間のS様から頂けました。素晴らしい内容ですので紹介します。

 「私は45歳まで惨めな人生を送ってきましたが、その後に突然変換して今は本当に幸せな人生を送っています。そういう若い頃にうだつが上がらない人でも私の様な例があるよ、と言う事でお話しをしたいと思います。
 先ず自分が辿って来た道を話したら良いかな。
 昭和23年に生まれました。戦争が終わって直ぐの時代です。その前の世代では大阪の焼け野原を見たのですが、私の時代は草原の時代でした。生駒の山まで家が無く、草原だったのです。そういう所から出発しています。
 大阪大学に入った時は大学紛争でした。その前に高校でも高校紛争がありました。大学紛争の事を知っている人はここにはあまりいないと思いますが、真剣に議論したりしていました。機動隊とぶつかったりしていましたが、仲間の1人がそれで死んでいます。羽田闘争で機動隊にぶつかってY君が亡くなったのです。
 佐世保闘争では、原子力空母エンタープライズ入港に反対して学生たちが米軍基地への橋の攻防で突撃しました。機動隊が放つ催涙ガスが入った水をホースで浴びると目が痛いのです。女子学生がレモンを切って目に入れると中和して痛みが無くなるのです。それで回復して又突撃をして行くというのです。
 高校の友達A君が川を渡りフェンスを乗り越えて基地に入ったのですが逮捕されてしまいました。彼は京大だったのですが退学になり、その後も公安が付いてまわり、就職が出来ずに北海道に行きました。そこの農園の人の紹介で山梨のブドウ園に世話になることになりました。そこで新しいぶどうの品種を開発して活躍したのです。葡萄酒の元になるものです。こういう人生もあるのだなと思いました。なかなか面白い人生もあるなと。

 大学紛争の中で彼らを見ていて私は違うと思っていました。あれは同じ土俵の上での戦いで、勢力争いだと思いました。1970年でしたが、新しい次元で見ないと駄目で、それでは新しい方向性で無いのではないかと思ったのです。
 それは何かという思いを抱き、何処へ行ったらヒントを得られるのかと思っていました。それで禅の修行に出逢ったのです。
 19歳の時でした。禅をやっていて直ぐに霊的体験をしました。ある意味で凄い体験をしてしまったのです。しかしそこには解釈の間違いがあったのですが。「この世は、夢で幻想にすぎない。」と思いました。そして「この世で生きていても仕方が無い。」と思ったのです。
 大学で研究していたのですがやる気が無くなり、就職もでもしかで先生しかできず、それも3年で辞めてしまい、結局お寺に入ったのです。しかしお寺に入っていて、ここでは21世紀の理念は出てこないと絶望して、そこも出てしまいました。
 何処にも所属しない人間は不安です。でもそのままに所属しないでやって行こうと決めました。そうして禅の修行をして、45歳までアルバイト、家庭教師、学校の非常勤講師、塾教師をしてふらふらして生きていました。
 男としては辛いです。皆、凄く出世していました。私だけ無職で、辛い思いを45歳までしてきました。そんな人生も必要だったとやがて思ったのです。しかし機動隊とやり合っていた彼らは、就職するとガラッと変わり、企業戦士に変わっていっていました。