2019年3月23日土曜日

1617「易経5」2019.3.23

質問:念仏しなければ極楽往生出来ないのではありませんか。念仏を称えなくても往生出来るのですか。

答え:自分の力量に頼った自力の坐禅ではなく、一切を他力にお任せするという心の状態になれれば、どんな行をやっても極楽往生できます。
 なぜ、ナムアミダブツという行だけで極楽に救いとろうとされたのか、もう一度原点に戻って思いかえしてみて下さい。

質問:それは、従来の仏道修行がとても出来ない弱い人、業(罪)が 重くて、これまでの仏教とは縁が結べない人にも手を差し伸べて、泥沼から救い上げてやりたいというお釈迦様の慈悲の心が、念仏という、そのような弱い立場の人たちにも可能な行によって、極楽浄土に向かわせ、救い取ろうとされたのでしたね。

答え:その通りですね。意志や体力が弱い人、魂が重いものを抱えている人を救うための念仏で、念仏行でなければ極楽浄土には往かせない、それ以外の行をやったらだめだとおっしゃっているわけではありませんね。
 私は、今はまだ全身でやる坐禅行が親しいのですが、もし病気になったり、歳をとったりして坐禅が出来なくなれば、そんな人のために用意して下さったお念仏を称えることになると思います。

質問:経典には極楽浄土は西方にあると書かれていますが、それはウソなんですか。

答え:古代には、インドからメソポタミア、エジプトに到る太陽信仰の通念として、宗教的な神話で語られる「東方」は、日の出の方向だから、「創造」を意味し、「西方」は、日没の方向だから「完成」を意味していたのです。
 ですから、極楽浄土が西方にあってそこに往くというのは、人類の魂の進化が「完成」に向かった時に住むことになる、「未来に出現するであろう地球次元の進化系の世界」を先取りして体験するということなのです。
 そして、そんな未来の素晴らしい世界を垣間見ることによって、その人は自分が目指している方向にしっかり自信を持つことが出来、勇気を持って再び歩み始めることが出来るようになるのです。

 このような、自分は必ず進化の最終地点に到達できるのだという確信を得た境地を、親鸞さん、法然さんは「 正定聚(しょうじょうじゅ)に住する」とおっしゃっています。
つまり、自分は必ず仏となれる(進化の最終段階に到達する)という事実にまったく疑いがなくなった境地を持つ人の仲間に自分も加入出来るようになったという境地を「 正定聚(しょうじょうじゅ)に住する」といいます。

質問:「正定聚」に加入すれば、どんな変化があるのですか。  

答え:何の変化もありません。煩悩が続くのも、迷うのも、加入前の状態とまったく同じですが、これから自分がどこに向かうのか、どこに到達するのかをすでに「知っています」。  ですから、悩みは悩み、迷いは迷いなんだけれど、安心して悩め、安心して迷えるのです。

 大きな船(釈迦時空間のたとえ)に、人類全員が乗せられて進化ゴールの港まで運ばれて行きつつあります。その舟の上で、私たちは右往左往して怒ったり、悲しんだり、笑ったり、ひっくり返って泣きべそをかいたりしています。
 しかし、私たちがどんな状態でいても、それは大きな船(大乗=大きな乗り物)の上で、その舟が間違いなく「進化達成港」 に入港できることを知っているので、迷いながらも安心しているのです。(つづく)

・マンスリー・メッセージ
ドアが開ひらけば  入ればいいけれど  無理矢理抉こじ開あけて  入ってはいけない
空席があれば  座ればいいけれど  人を押しのけて  座ってはいけない
心静かに  時を待つこと  時は味方です