前のブログ「天命」で立花大敬さんのお話しを紹介しましたが、色々と貴重な学びの機会に成りました。その中で私の天命、使命はと改めて思いました。大敬さん始めこれまで縁して、教えを頂いた先達の方々で勝手に私が思っている師が何人かいます。その中である師の導きの経過を少し振り返ってみたいと思います。
その方との出会いは私が44歳の時ですから23年前になります。
その時、人間のいのちの目的、そして使命を教えていただきました。
いのちは人間がつくったものではありません。肉体として見ると両親、そしてご先祖様がいますが、生命はそれとは違う次元のものです。それを本質生命、宇宙エネルギーなどと言い、肉体の物質生命とは異なるものです。
生命もひとつではなく、多くの霊体の集まりで、心、意識がその情報を引き起こし、環境や他の生命と波動的に同調したりします。その肉体の制限の中で意識を磨く事で、これまで受け継いで来た癖、業、カルマを修正出来るといいます。そこではその反省、努力、気付きが大事になります。
その修正は生きてある時、エネルギー生命が身体に宿っている時しかできないのです。何しろ死んだ人は死んだままで変えられないのですから、生きてある事に謙虚に、感謝で今を己の目的の為に生きる事が大事です。
その学びの為に、縁する人は自分と異なった性質を持つ人や、正反対の人を選択させられると言います。それが夫婦であったり、親、兄弟であったり、そういう方たちが自分の癖の修正の為に最適な人達です。
ちなみに両親から色々な性能を受け継ぎますが、身体の左側は父親の方の先祖、父方の要素で、右側は母親の方の先祖、母方の方の要素でその全く違うもので自分が出来ているともいわれます。私達は沢山の癖を持ち生まれて来ていて、その違うものを調和させる事で生かされているのです。
ですから前世でお世話を受けた事など、周りの方々に必要なことをさせて頂かないとなりません。対面同席五百生といいますが、出合う人、全てに縁があり、縁がない人はいません。そして全てに縁があり使命があるのです。私達の肉体の60兆個の細胞の全てに役割がある様に、私達人間も全て役割があります。
ここで「対面同席五百生」の事を少し紹介します。
「これは、たまたま偶然にバスで隣り合ったり、たまたま喫茶店の向かいの席に座った見知らぬ人であっても、そのように同席したり対面したりする人というのは、これまで繰り返されてきた前の世で、五〇〇回は一緒に生きた人である、という意味です。「袖の振り合わせも五百生の機縁」とも言いますが、袖を振り合わせてすれ違うだけのような人であっても、目には見えない、深い深い縁があるということなのですね。
すると、家族は、どれほど深い縁なのでしょうか。バスや喫茶店でたまたま同席対面の人でさえ、五百生という深い縁があるのですから、この世で親子となり家族となり、また夫婦となる相手というのは、もう500回どころの縁ではありませんね。千回とか、1万回とか?それはもう、ずっとず~っと長い長~い魂の旅を共にしている存在なんだな、そんな気がしてまいります。
身近な人ほど、些細なことで喧嘩になってしまったり、すれ違ったりしてしまうものですが、前の世、その前の世、もっともっと遥か遠い世からの深いえにしが、自分と身近な人との間にはあるのだと考えてみると、(本当に前世がある、ない、かの議論はさておいて)、ムカツク親、うざい伴侶も、少し違った意味を持った相手として感じられてまいります。私の遠い遠い過去から、遠い遠い未来に続く魂の旅の同伴者なのだと思うと、相手も、また私も、お互いにお互いのために何らかの大切な意味を持っているのかも知れません。
私たちは、どうしても凝り固まった考え方や小さな視野になりがちです。ときには、大きな眼差し、スケールの大きな考えかた、途方もない時の流れの側から、自分を見つめ直してみるのも良いのではないでしょうか。」
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