2019年3月22日金曜日

1616「易経4」2019.3.22

 この「癒しと学びの場」が、「極楽浄土」です。その「場」の院長・校長さんは、お釈迦様の慈愛の面が強調されて「阿弥陀仏」と命名され ました。

 そして、この「極楽浄土」に往生(おうじょう)(往って生まれる)するためには、難しい修行はいらない、ただ「南無阿弥陀仏」というお念仏を称えるだけでいいのだとされました。  これなら、意志の弱い人も、罪が深く、魂が重くて、放っておけば地獄に沈みこんでいってしまうような人でも、お念仏の舟に載せれば、「極楽浄土」まで運ぶことができますね。

 さて、ここで誤解される方がいそうなので、さらに説明しておくと、この「極楽浄土」は、私達の「終(つい)棲家(すみか)」ではありません。私達の本拠地はあくまで地球世界で、この次元で魂の成長を遂げてゴールインすることが、私たちに与えられた使命なのですから、そのことを忘れないようにしなくてはなりません。

 「極楽浄土」はあくまで、私達の魂の傷を癒し、元気づけて、学びを順調に進めるための病院であり、学校なのですから、そこにいつまでも滞在することは許されません。
 魂の傷が癒え、元気になって、無事に一定の学習過程が修了すると、再び地球次元に復帰して、この次元での進化の歩みを続けることになります。

 たまに、いつまでもこの安楽な施設に留まっていたい、もう二度と地上世界に戻りたくないと駄々を捏(こ)ねる人も出てきますが、そんな人も滞在が長くなると次第に息苦しくなってくるのです。
 この施設は、なるほど快適で、住まいも贅沢な調度で飾られていますが、そこから出ることが出来ないでいると、次第にそこが牢獄のように感じられるようになって、やがて我慢出来なくなって、地球次元の世界へと戻って来てしまいます。

 極楽浄土は「終の棲家」ではないということを、法然さんや親鸞さんはしっかり心得ておられて、極楽浄土に向かう過程を「往相(おうそう)」、そして、 極楽浄土でしっかり学び、菩薩の資格を得て、地球次元の世界に帰還して活動する過程を「還相(げんそう)」と呼んでおられます。

 それから、浄土信仰の方が間違われがちなのは、極楽浄土は死んでから往くところだという誤解です。極楽浄土は空間的な場所にあるのではなく、魂の状態として存在するのですから、「その気」になれば、「そこ」に居ます。
 ですから、地球次元の世界に居ながら、極楽浄土に往ったり地上世界に帰ったりしてい るということもできるのです。その状態を親鸞さんは「平生業成(へいぜいごうじょう)」と呼んでいます。つまり、地上世界で日常生活をおくっていながら(平生)、極楽往生の事業が完成して、すでに往生出来ているという状態ですね。

 私の場合で説明しますと、私は自力の坐禅ではなく、他力坐禅を坐っているので、坐禅すると「極楽浄土」に往くことができます。もちろん、その往生の程度は、その時の私の身心の状態によってまちまちで、目だけ、耳だけ、触覚だけ、指一本だけ、足一本だけ往生する という場合もあれば、身心全体でどっぷり浸かりこんで有難いという場合もあります。